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2006年10 月29日 (日)

 政府、救済措置を検討;必修逃れ問題

 政府は28日、全国の高校で広がる必修科目未履修問題で、履修不足の生徒が卒業できなくなったり、補習で過度の負担が生徒にかかることを避けるため救済措置の検討に入った(毎日28日夕刊1面)。学校教育法では卒業は校長の承認事項となっている。通常は高校の全課程を修了したと認めるときに卒業させており、必修科目の受講は当然の条件だ。ところが政府・与党の間に浮上している案では来春の卒業生に限りこの条件を特例的に拡大し「一定の習熟度があると校長が判断すれば卒業を認める」ことにし、生徒がリポートを提出すれば卒業を認めようというものだという。

 27日には安倍首相が伊吹文科相に負担軽減の策定を指示、PTA団体が配慮を求める要望書を文科省に提出するなど文科省に「徳政令」を期待する声が強まっている(読売28日夕刊社会面)。文科省は「学習指導要領には法的拘束力があり、指導要領に従わないという方針を打ち出せば“超法規的措置”を取ることになってしまう」と苦慮しているという。
 このほかの救済策としては規定単位数の削減や出席日数の削減なども検討対象に上がりそうだ(読売29日朝刊1面)

 <谷口のコメント>
◎永田町の論理排し、文科省は筋を通せ◎
   社会部国会担当として政界の裏側を取材したことのある身としては、永田町(政界)ほど教育論議にふさわしくない世界との実感は今もぬぐいようがない。脱法は当然のことで、現実対応の美名の下に法理を曲げることぐらい朝飯前の連中だ。今回、政府与党の間に浮上している“解決策”も学校教育法の“読み替え”という手法である。カラスもサギとしかねない詐術と言って過言ではない。

  当初「ルール通りに」との考えだった文科省が揺らいでいるという(毎日29日朝刊2面)。もともと文科省は履修単位不足数は数十コマ(授業時間)と想定していたが、岩手県の私立高校で350コマも不足するケースが出るに及んで原則論では片付きそうにない情勢となったからだ。

  それでも文科省は筋を通して「ルールはルール」の姿勢を各地教委に厳然と示すべきだ。350コマ不足と言っても卒業までにまだ5カ月もある。1カ月で70コマ。1週間で18コマだ。土日も活用すればクリアできない数字ではない。大学入試との関係には目をつぶるしかないだろう。どだい、この350コマ不足のケースは学校認可が適正かどうかにも係わるほどの問題であり、なぜ10単位以上もの履修不足が起きたのか生徒側からの事情聴取も含め厳正な調査の上で対応を決めるべきケースだ。

  そもそも今回の騒ぎを見ていて「生徒も同罪ではないか」との感は否めない。同罪は言い過ぎとしても教科書は買ったのに授業がないなど疑問点はいくつもあったはずだ。でもやはり先生には言いにくいのだろうか。福井県のある県立高校の教諭がこんなことを言っている。「年度末に生徒に通知表を渡すと『どうして授業時間数と単位数が違うのか』という質問を生徒や保護者から毎年、受けていた。それでも『受験のため』と説明すると納得してくれた」(朝日29日朝刊社会面)。年度末に気付いても手遅れだ。

 そうした機微も分かった上であえて言うと、高校3年生といえばもう17か18歳だ。ばれたら身の不運と潔く先生とともに責任を果たすことぐらいは教えないと、今回の事件は悲惨なカラ騒ぎで終わってしまうのではないか。その後遺症はあまりに大きい。

教室に正義の旗を掲げよ

  標題の言葉は自分が毎日新聞社の教育担当デスクだったころ、文部省担当記者が書いた中学校の業者テスト追放キャンペーンにからむコラム「記者の目」の最後に筆者に頼んで付け加えてもらった言葉だ。1990年代当初まで受験産業が行ういわゆる業者テストが高校入試と深く結びつき、偏差値至上の教育となっていた。我が教育取材班は偏差値追放を掲げて業者テスト追放のキャンペーンを張り、文部省(当時)を動かして1993年、中学校から業者テストを一掃することに成功した。その結果がもたらしたこととその後の経緯の検証は自分なりに行わなくてはいけないと思っているが、昨今の高校での必修科目逃れ騒動を見ていると、その時自分が強く感じた「教室に正義の旗を」という思いを改めて思い出すのだ。
 当時は高校受験生が業者テストを受けてその成績と希望校の基準点を照らし合わせて進路決定の決め手としていた。一部の私立高校は業者テストの成績ではやばやと生徒の合否を決めるところもあった。また、成績を上げるために業者テスト問題を漏洩するようなことが当たり前のようにおこなわれていた。偏差値で生徒をスライスしていく偏差値偏重の教育もさることながら、先生がテスト問題を平気で漏洩して恥じない教室のモラル低下、生徒たちへの悪影響を自分は最も恐れた。業者テスト追放に対しては「きれいごと」との批判があるが、教育が「きれいごと」を無視しては成り立ちようがないではないかと思った。
 今回の必修逃れ事件は「きれいごとでは大学入試は戦えない」という学校現場の意識が共通にあるようだ。たとえウソにウソを上塗りする行為を重ねても、受験につながらない科目は教えない、というルール無視の行為だ。それが生徒を巻き込んで白昼堂々と行われているところが業者テスト問題と似ている。

 発端となった富山県立高岡南高校のケースは1通の投書で明るみに出たという。いったんこうなると生徒たちは学校側の不正に気づくわけで学校側は芋ずる式に白状するしかない状況に追い込まれた。それでもさして悪いことをしたとは思っていないのではないか。単に大学合格者の数を少し増やしたいがために教育が最も大切にすべきことを失っていることに気がつかない。現在は差し迫った卒業にむけてどう対策をとるかに目が奪われているが、落ち着いたところで少なくとも学校長の処分は可能な限りさかのぼって厳重に行うべきだ。たとえそれが何千人の処分になろうとも断行して、学校に正義の旗が立つところを生徒たちに目撃させなくてはいけない。「不正は通らない」ということを教え込むことが教育の根幹である。

2006年10 月27日 (金)

偽装のデパート・都立八王子東高校は「倫理」欠く;「必修」逃れ

 チエックが厳しいからあり得ない、と都教委が言い切っていた都立高校でも必修逃れが1校判明した。都西部の名門、都立八王子東高校。校長らは26日、都庁で記者会見して釈明に追われた(27日各紙朝刊)。同校は毎年10人前後の東大合格者を出している進学校。2001年に日比谷高校とともに都教委の「進学指導重点校」に指定されている。

 必修逃れがあったのは公民科。学習指導要領では「倫理」と「政治・経済」をセットで履修するよう定めている。同校では2年生で全員に「政治・経済」を履修させたが。3年生では「倫理」を「日本史」「世界史」「地理」とともに選択科目にした。このため3年生320人のうち181人が「倫理」以外の教科を履修していた。「進学への強い希望が生徒にあり、それに答えようとする誤った意欲があった」と校長は動機を語った。

 同校の必須逃れの手口は徹底している。履修科目を記して毎年都教委に出す教育課程届けで「倫理」を全員が必修で履修したと虚偽を書き込んで提出。さらに実際には選択しているかどうかにかかわらず3年生全員に倫理の教科書を購入させた。通知表の「倫理」の成績欄には実際に選択した別の科目の成績を記載していた。受験大学への内申書偽装も疑われる。
こうした偽装工作は少なくとも00年度から続けていたという。

毎日によると、同校の副校長は事件が明るみに出た直後の25日、同紙の取材に「本校ではあり得ない。見識を疑ってしまう。子どもが被害者で気の毒だ」と返答していた。26日には一転して認めた上で「取材を受けた時点では問題ないと思っていた」と語ったという。確信犯としての隠蔽だったようで受験圧力がモラルハザードを生んだ状況を浮き彫りした。
 なお、必修逃れ事件は全国で35都道府県244校に広がり補講などを余儀なくされる高校生は3万人を超えそうだ。

<谷口のコメント>
◎生徒が見ているぞ!隠しおおせるはずのない偽装だ◎
 八王子東高校が都教委の調査に対して即座に偽装を認めたのは賢明だった。「犯行」は生徒を巻き込んでのものであり、隠しおおせる保障はなかった。後で判明しては悲惨すぎる。朝日都内版によると生徒はルール違反であることを知っており、2年生の男子生徒は取材に対し「今年の4月ごろ、社会科の教師が『うちの教師は頭がいいから(カリキュラムを)工夫している』と自慢げに話していた。いつか問題になるかもしれないと思った」と話した。
 今回の事件で最も罪深いのは生徒を共犯に巻き込んでいる点だ。受験プレッシャーで教育が死んだ、と言わざるを得ないだろう。

2006年10 月26日 (木)

世界史「必修」逃れ全国の高校で;動機は受験効率

  富山県立高岡南高校で発覚した履修単位不足は全国の多くの高校でも同様であることが各新聞社の調査で分かった(各紙26日朝刊1面)。数字は朝日「10道県63校」、毎日「10県65校」、読売「11県65校」と若干の差があるが、学校名も挙げた毎日の一覧からも、これらの学校が受験名門校であることが歴然だ。取材に対して多くの校長らも「入試科目を優先した」と動機を語っている。
事件名を朝日「必須漏れ」、毎日「履修不足」、読売「必修逃れ」としたが、実態から言えば読売が正確な命名だ。ほとんどのケースは地理歴史教科でおきている(読売)。学習指導要領では同教科は「世界史A」「世界史B」から1科目、さらに「日本史A」「日本史B」と「地理A」「地理B」から1科目の計2科目を必修で学ぶことを定めている。ところが「世界史」を教えず、「日本史」か「地理」のどちらか1科目しか履修させていなかった。つまり覚えることが多い「世界史はずし」である。浮いた時間を英語や数学など大学受験に必要な科目に充てていたようだ。主に理系進学者を対象にした措置だったという。
大半は教育委員会に必修科目を履修しているかのように虚偽報告をしていた。
必修科目が未履修では卒業できないため、卒業までの数ヶ月に70時間の授業をやってクリアする予定だが、受験生を控えた3年生からは「迷惑な話だ」という声が上がっている。

<谷口のコメント>
嘆かわしい「教育犯罪」に厳罰を
 偽装や虚偽報告は食品や政治の世界の話かと思っていたら、全国の進学名門高校が平然とでっち上げカリキュラムで卒業生を送り出していたという。いったい世の中何を信じていいか分からなくなってくる。世界史を高校で学ぶことは必ずしも必要かどうかの議論は別にして、教育の現場で違法脱法行為がまかり通っていいはずがない。教育委員会は過去にさかのぼって経緯を調べ、責任者は懲戒処分に付すべきだ。
 記事では自分の母校の名前も出てきてあ然とした。「福井県で世界史の授業を受けていなかった県立藤島高校3年の生徒は『たまに授業をするかも知れない』というあいまいな説明で教科書だけは買わされた、と明かした」(読売)という。偽装のために使いもしない教科書まで買わせる根性が情けない。我が母校は幕末の英才、橋本左内が初代校長を務め、質実剛健をモットーとする。虚偽に関係した教職員には即座に責任を取っていただきたい。

2006年10 月25日 (水)

新任女教師の自殺で遺族が公務災害認定を申請;東京都新宿区

  この春新採用され、東京都新宿区立小学校の2年担任としてスタートを切った女性教諭(当時23歳)が自殺を図り6月1日に自殺した。その後の遺族らの調べでこの教諭は、長時間労働に加え保護者らの苦情にさらされ苦しんでいたのに校長らの支援態勢は不十分だったことが分かったとして両親が24日、地方公務員災害補償基金に公務災害として認めるよう申請した(各紙25日朝刊)。勤めていた学校は各学年1クラスで仲間の支援態勢も薄い上、この春10人の教師のうち5人が移動したばかり。さらに保護者との間でやり取りする連絡帳で学級運営についての苦情を繰り返し書き込まれ、自殺を図る直前には「結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのではないか」などと攻撃を受けていた。女教師の遺書には「無責任な私をお許しください。全て私の無能さが原因です。家族のみんな ごめんなさい」と書かれていた。両親は「職を全うしようとしたからこそ倒れたということ証明したい」としている。

<谷口のコメント>
◎先生バッシングでは教育改革はできない◎
教わる側、教える側双方で悲しい死が相次いでいる。教育の現場は厳しくとも希望と夢にあふれたものであるはずだ。それがこの異様な有様は、まるで学校が死屍累々の戦場であるかように思わせる。この原因はどこにあるのか、その追求こそがこれからの教育改革論議の中心でなくてはいけないはずだ。今回の女教師の自殺の主因には代理の弁護士が主張するように保護者とのやりとりによるストレスも大きいことは間違いないだろう。先生をたたけば教育がよくなる、という発想が世間に広がるのは危険だ。右も左も分からない新採にクラス担任をさせることにも驚くが、未婚で子無しには教師の資格がないというプロフェツショナル否定の発言も残念だ。予想される競争重視の教育改革がますますの先生バッシングを生み、教育現場の一層の荒廃を招くことを恐れる。

2006年10 月24日 (火)

初日に相談204件、普段の数十倍;法務省「いじめ」110番

  いじめを苦にした子どもの自殺が相次いだことで法務省が「いじめ問題相談強化週間」を23日からスタートさせたところ初日は「子どもの人権110番」(0570-070-110)に、いじめに関する相談が204件寄せられた(毎日24日朝刊)。ふだん子どもの人権110番に寄せられる数十倍の件数という。法務省幹部は「相談できず、悩んでいる子が多いのでは」と話している。

<谷口のコメント>

◎110番は機動性ある有効な手段だ◎

 対社会面のベタ記事だが、このところの一連のいじめ自殺報道の中でもっとも実効性のある対策を示すものとして興味深く読んだ。子どもの悩みを吸い上げる「110番」的な電話相談は役所や民間団体などで何種類もある。法務省が各地の人権擁護局を基点に展開している「子どもの人権110番」もそのうちの1つで、持って行き場のない子どこたちの訴えを吸い上げるのに一定の効果があることを証明した。問題は吸い上げた訴えにどう対応していくかだ。訴えた子どもや告発者に迷惑がかからないようにしながら問題解決に当たるには熟練した技術と機動力が必要だが、即効性のある対策としてもっと整備していくべきだ。法務省、文科省、警察庁がそれぞれの縄張りを捨て協同し、NPOなど民間団体の力も借りながら全国的な機能も持ったシステムの創設を急ぐべきだ。

2006年10 月23日 (月)

実態反映しない文科省統計:いじめ・自殺

 いじめが原因の自殺が相次ぐ中で、文科省が毎年発表している子どもの自殺原因や小中高校でのいじめの発生件数が実態を反映していないことを問題視する声が高まっている。文科省統計では99年から05年度の間は、いじめによる児童・生徒の自殺件数はゼロとされているが、実際にはいじめを苦にした自殺が相次いでいた疑いのあることが分かった(読売20日夕刊)。最近明らかになった

北海道滝川市

のケース以外にも、自殺した生徒へのいじめがあったと学校が認めたケースが少なくとも6件あり、うち2件は遺書にいじめを受けたことが記されていた。しかしこれらを含め各教委は「因果関係が認められない」などの理由で報告件数に入れていなかった。毎日23日朝刊によると、文科省調査による全国小中高校、特殊教育学校でのいじめの発生件数はピークの95年度(2万143件)から年々減っていることになっているが、法務省調査では逆に増加傾向にあること、文科省調査では発生件数(児童生徒1000人当たり)で見ると愛知県は福島県の30倍という説明し難い結果になっている。

<谷口のコメント>

◎虚偽統計は不作為の罪につながる◎

 文科省の統計が各地教委の申告で成り立っていることを考えれば、文科省だけを攻めるのは酷といえる。しかし、その欺瞞性の強い数字を文科省自身が受け入れているとなると事は重大だ。「いじめは沈静化している」と文科省がことさらに言った具体的事例は知らないが、「どうもいじめが増えているようだ」との疑念を文科省が示した場面も記憶にない。しかし、いじめの深刻さが統計に表れないのをいいことに何もしなかった不作為の責任は厳しく問われなくてはいけないだろう。虚偽報告をした教委・学校も同罪だ。教育現場の隠蔽体質を変えていくためにも文科省の「虚偽統計」問題を新聞はシビアに追及するべきだ。

2006年10 月22日 (日)

「学校ホームページ」シリーズその1

<ページから人影が消えていく>

 ここ10年ほど学校ホームページを断続的にウオッチングしている。校内での子どもたちの生き生きした姿は日常的には見る機会がないだけに学校の様子がよく分かって楽しい。保護者らにも関心を持って見る人が少なくない。ところが近年、学校ホームページから人影が消える現象が進んでいる。

 今回は新潟県の中学校を訪問してみたが、全体に写真の数がますます減っているのに気付いた。生徒の姿が後ろ向きやボカシならまだしも、生徒の写真自体が1枚もない学校が何校も見つかった。フロントページに自慢の校舎の写真が1枚あるだけ、という具合だ。まるで申し合わせがあるようにどの学校も同じ状態という市もある。

写真が少ない学校のホームページは、コンテンツもなべて貧弱な印象だ。生徒の写真掲載自粛の掛け声に隠れてホームページを充実させる努力を放棄しているのでは、とさえ疑いたくなる。ただ、それは言い過ぎで、学校が様々なプレッシャーにさらされているのは間違いない。

◎学校長の認識次第◎

学校ホームページの取材を進めていて気付くのは、ページが充実するかどうかはひとえに学校長の理解度にかかっている、ということである。校長が、地域に学校を説明していくホームページの役割の大事さを理解していればいいが、逆にITに反感を抱く校長も少なくない。「学校を開く」ことへの不安が大きいのだろうと感じるケースも多い。最近もある中学校のホームページに勉強質問コーナーができてすぐに閉鎖になった例があった。子どもたちが掲示板に勉強について質問を書き込んで、先生方がそれに答える意欲的なコンテンツだったが、アダルト系の書き込みがされたことで校長の廃止命令が出たという。担当の先生はこまめに掲示板を監視していなかったことを悔やんでいたが、態勢ができるまで少しの猶予もできなかったのだろうか。

教育委員会や校長の無理解に拍車をかけているのが05年春から完全施行された個人情報保護法の存在だ。なんでも消しておけば安心、と生徒の姿がホームページから姿を消す大きな要因になった。

◎教委の隠蔽体質も影響◎

昨年のことだが、新聞で「生徒の姿が見えるページ作りを進めている中学校」という紹介記事を見て、甲信越地方のある中学校ページを訪ねて驚いた。人物といえば校長さんの顔写真が1枚きり。生徒は1人として登場しない。「いったい何があったのだろう」。キツネにつままれた気がした。記事掲載は5月。ページの最終更新履歴は7月だから、この間に何かが起きて変化があったのだろう。問い合わせ取材をしても困惑する学校側の顔が見えるようで確かめの電話を入れなかったが、たぶん校長か教育委員会あたりから「目立ち過ぎじゃないの」と圧力があったんじょだろう。新聞記事がマイナスに作用することはままあることだが、昨今のいじめ自殺問題でも明らかになった教育委員会の隠蔽体質はこうした面でもマイナスの影響を及ぼしている。

◎危機の実態の吟味を◎

「目立たない」という信条とホームページの機能は相反するものだ。しかし、よく事情を聴いてみると「目立つことの危険」がほとんど吟味されずに危機管理が先行しているケースがほとんどと言える。「万一」の中身が議論されないまま、「何か起きたとき誰が責任を取るのか」という方向に流れてしまいがちなのだ。

例えば、名前は書かないで女子生徒のアップ写真を掲載したとしょう。そのとき想定される事態はどういうものだろうか。女子生徒の顔に裸身の写真を合成するイタズラ写真が公開されたり、あるいは最悪の場合は誘拐が想定される。こうした犯罪の発生可能性はどれほどか、対処法はあるか、絶対に回避できないことなのか、などの議論が徹底されないとホームページに写真が載ることの負の部分ばかりが際限なく拡大されてしまう恐れがあると思う。そしてこの議論は学校だけでなく社会全体で行なう必要がある。結果的に学校だけを責めればいい、というのでは学校は逃げ腰にならざるを得ないからだ。

◎子どものアップ写真はどんどん載せよう◎

女子生徒でも男子生徒でも名前は別にしてアップ写真はどんどん載せたらいいというのが私の見解だが、そのことの危険について詳しく論じるのはまたの機会にしたい。校内や通学路、地域社会を含めた子どもの安全対策全体を語ることになるからだ。ただ、よく見られる保護者の掲載承認を取る努力だけでは責任の転嫁に終ってしまい、解決策にならないということは指摘しておきたい。

学校ホームページから人影が消える原因は個人情報保護法だけではない、基本的には学校ホームページの意義が学校経営の中できちんと認められていないところにあるのではないだろうか。

(つづく)

2006年10 月21日 (土)

「言語力・読書力検定」実施も;活字文化推進機構設立へ

 「文字・活字文化振興法」の趣旨を具体化するため、経済界や労働界、新聞・出版界などが協力して来年10月をめどに「文字・活字文化推進機構」の設立を目指している(読売21日朝刊2面)。設立準備会が11月にも発足し、世話人に作家で日本ペンクラブ会長の井上ひさしさんや高木剛・連合会長、活字文化議員連盟会長の中川秀直・自民党幹事長らが理事に就任する予定。推進機構では文字・活字文化の振興を図るシンポジウム開催、地域の読書運動や国際交流の促進などの活動をするほか、読み書きや表現などの能力を測定する「言語力・読書力検定」の実施も検討されている。準備会主催のシンポジウム「言葉の力と日本の未来」が11月25日、東京・内幸町の日本プレスセンターで開かれる。パネリストは北村正任・日本新聞協会会長(毎日新聞社社長)や作家の林真理子さん、村山隆雄・国際子ども図書館長らが予定されている。
<谷口のコメント>

◎どっこい生きてた文字・活字文化振興法◎
10月27日が「文字・活字文化の日」だということを知っている人はどれくらいいるだろうか。文字・活字文化振興法11条は「国民の間に広く文字・活字文化についての関心と理解を深めるようにするため、文字・活字文化の日を設ける」として読書週間初日の10月27日をその日とし「国及び地方公共団体は、文字・活字文化の日には。その趣旨にふさわしい行事が実施されるよう努めるものとする」と定めている。昨年は文化庁などが中心となってシンポジュウムが開かれたようだが、今年はとんとこの法律の消息は知れなかった。同法は超党派の議員立法として05
年7月22日に参院本会議で可決成立、同月29日に公布即施行された。人の心に関係することを法律で定めるのはいかがなものか、という異論もあるけれど、日本の言葉の現状がいかに憂慮すべきものかは言うまでもない。本を全く読まない子どもたちは増え続け、日本の文化は根底から崩壊への道を歩もうとしている。この法律がそうした現状に人々の目を向け、解決への動きを興す一助になればと思う。

2006年10 月20日 (金)

教育再生会議が非公開でスタート

 安倍新政権最大の課題、教育改革のエンジン役となる教育再生会議(座長、野依良治・理化学研究所理事長)が18日午前、首相官邸で初会合を開いた(各紙18日夕刊、19日朝刊)。17人の委員と政府側から安倍首相らが出席したが、公開されたのは冒頭の首相と文科相、野依座長のあいさつまで。その後取材陣は締め出された。終了後、山谷えり子首相補佐官は「後で細かい議事録を公開しますのでプロセスは追っていただける」と説明した。会議で首相は教員免許更新制度や学校評価制度の導入など予想された具体的テーマを挙げ、教育再生に向けた決意を強調した。おおむね月に2~3回程度の会議を開き、来年1月に中間報告をまとめる予定という。

◎なぜ「いじめ自殺」論議がない?◎
 会議が非公開なのは意外だ。読売、毎日などが批判的に報道しているが、非公開になることは何日も前から分かっていたのではないか。そのときから騒いでほしかった。それはともかく首相へのぶら下がり取材を2回から1回に減らすなど新政権の秘密主義が気になる。審議会など会議を非公開にする理由として発言者へのプレッシャーが理由にされることが多いが、教育論議でそれを心配するようなら委員には就任しないだろう。議論をまとめていく過程を露出したくないから非公開にしたのが本当ではないか。「はじめから結露ありき、ということか」と食い下がった記者がいるというが、その通りだ。再生会議は安倍構想を追認するだけの下請け機関と見られても仕方がない。日がたってから細かい議事録を公開しても熱心に読む人は少ないのではないか。再生会議の狙いが広く国民的教育論議を起こすことにもあるのなら、熱いうちにマスコミ報道の洗礼を受けるべきだ。

 もう1つ不思議なのは、非公開だからなんとも言えないが、会議で「いじめ自殺」問題への言及があったという記事が1行もないことだ。今一番の国民的関心事は北海道や九州で起きた「いじめ自殺」事件ではないか。ここからどのような教訓を引き出し、対策を立てていくかが導き出せないようでは教育の再生は望めない。制度をいじるだけでは改革につながらないのは歴史が示すところだ。おさまりかえって密室の空論を楽しんでいる場合ではないよ、再生会議諸氏。