2007年9 月14日 (金)

「鍛える国語教室研究会」(鍛国研)主宰 野口芳宏先生

       「お子様幻想」を排し、国語授業の改革を
     ~カリスマ国語教師からの提言~
       「鍛える国語教室研究会」(鍛国研)主宰 野口芳宏先生

プロフイール
1936年千葉県君津市生まれ。千葉大教育学部を卒業し当時の君津町立貞元小学校を振り出しに小学校の国語教師生活が今年で50年。新任から5年後に千葉大教育学部付属小に移り20年を過ごす。教頭で木更津市の公立小に戻った。2校で計9年間教頭をやったのち請西(じょうざい)小、岩根小で各2年、校長を務めた。定年退職で北海道教育大教授に転じ2001年退官。その後は現役の国語教師たちを相手に国語授業充実のため鍛国研、国語人の会、授業道場野口塾などさまざまな活動に取り組む。「鍛える国語教室」(全20巻・別巻3)など著書多数。師事する現役教師も多い国語授業のカリスマ。昨年の講演回数は135回に上ったが、1.5ヘクタールの水田を耕作する現役の農民でもある。

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 インタビューは6月4日、東京・神田の学士会館で約1時間半にわたって行われた。農作業で日に焼けた精悍な顔。あふれる闘志。こちらを呑み込んでしまいかねない勢いで語る。「教頭を9年間も。当時としては長いですね」との質問に、あっさりと酒の上での失敗が原因だったことを“自供”するなど話は性格同様に単純にして明快。ずばりと核心を突いて極めて分りやすい。

 現実遊離の空論を嫌う。実践を重ねて考え抜いた授業の力量は現役時代から異彩を放ち、退職と同時に教育大学教授に迎えられた実績の持ち主。「子供は大人と同じで善悪具有の存在」との子供観に基づいて「教育の基本は鍛えること」と喝破する。にもかかわらず、戦後の教育は子供に迎合する方向に流れたと嘆く。その背景もあって今の国語授業は学力形成が見えない状態に陥っていると「国語授業の改革」を叫ぶ。

 豊富な経験に裏打ちされた話はどれも捨てがたく、ロングインタビュー記事となった。<国語授業改革><子供観><書写について><活動の場と方向>の4部構成でまとめた。

<国語授業改革>
学力形成が見えにくい国語授業
――国語改革を叫んでおられます。明治以来の筆頭教科である国語の改革がなぜ今必要なのでしょうか。
野口 端的に言うと今の国語授業は学力形成が見えない。例えば、あなたの今もっている算数・数学や理科の学力は①授業で付いたのか②授業以外のところで付いたのか、と聞くと断然①の答えが多い。9割ぐらいそうだ。ところがあなたの国語学力は国語の授業の中で付けられたと思うかどうかを問うと、まず9割の人は国語の授業のおかげとは思えない②だと言う。これが一番端的な事実。私は無理ないと思う。算数の授業なら今日は約分、通分を教わったと言えるが、国語はそれがない。「ごんぎつね」(注)を習っても話の題名しか言えない。「ごんぎつね」で何を教わったか、教えたかと問われると子どもも教えた先生も答えられない。

  ごんぎつね:「ごん狐」(ごんぎつね)は児童文学者、新美南吉の代表作。いたずら好きの一人ぽっちの子狐「ごん」と村人「兵十」の悲しい交流物語。初出は1932年、童話と童謡の児童雑誌「赤い鳥」。今も小学校国語教科書の定番教材。

「見える学」力、使える技術を

――ではどのような授業に変えていけばいいですか。

野口 国語が一番大事という自覚は皆ある。総論としては国語が大事と分かっているが各論が弱い。これは大変な問題だ、と考える。もっと学力をつけてもらったと自覚できるような国語にしていかなくてはいけないと思う。私流のキャッチコピーで言えば「見える学力、使える技術」だ。例えば対談をする、挨拶をする、自己紹介をするのは1つの技術だ。そういう技術を全然教わっていない。それからメモの仕方、ノートの取り方などはまさに国語の授業で教えなくてはいけない技術なのに誰もやらない。見える学力・使える技術、を各論で見せていきたいな、と思っている。

言葉の知識や技術を教えよう
――国語はメーン中のメーン教科、しかも授業時数も一番多い。多くの授業法研究もなされてきたはずだが、どうしてそうなってしまったのでしょうか。

野口 妙な言い方だが国語教育学が人間形成とか精神的なところに傾き過ぎて言葉の知識や技術を教えることを軽んじてきたのではないか。読書百遍、義おのずから現る、と言われます。子供は優れた内容の文章をただ読ませていればいつかは分かるのだ、という楽観的経験主義が底流にある。これまでの国語授業も「いい本を読ませていさえすればいずれ読解力は付いてくる」という楽観主義ではなかったか。もっと分かりやすくするため短く「要約する力」を付けたり、「言い換える技術」を教えるとか、例えばこうだと「例示する技術」を教えるとか、そういうことを教えればもっと役に立ったのではないかと思う。

 だから内容主義というか文章に書いてある内容がよければいい教材だとする主張が強かった。人間教育の教科だという考え方で行き過ぎたのではないかと思う。終戦後の墨塗り教科書を経験したがいっぱい消すところがあった。それは、言語の学力を教えるということが教科教育の中でなかったことの反映と言っていいのではないか。

――原因はなんなのですか。 

野口 良い言葉を使っていれば精神もよくなる、というような言霊思想のようなものが圧倒的に強すぎたのではないか。だから科学的、合理的に言語としての学力を形成しようという努力が国語ではあまりなされなかったのではないか。

具体から抽象化する教育を
――日本語のよさだと思いますが、言霊の国というのは。そこが阻害したと。
野口 例えば英語は語学教科ですよね。国語科はもっと語学教科としての研究が必要だった。ところが日本語を話す子に教えるのだからもう日本語は改めて教えなくてもいい、という考え方があったのかもしれない。例えば難しい言葉が出てくると易しく言うとこうだと抽象を具体化する教育はたくさんあった。テストでも次の言葉の意味を書けという問題が多い。しかし、こういう長ったらしい説明は一言で言うと「努力」というんだよ、というような具体から抽象に導くような指導はほとんど国語科ではしていない。だから子供らは一般に抽象言語に弱いですよ。

 今の若い者も語彙力に乏しいというようなことがよく言われる。それは日本の戦後の言語政策は、難しいことはやさしく言い換えるべきだという、迎合的な低俗化の方向を歩んできたわけだ。そういうことも国語学力を低下させてきたと思うし、そういうことに最も加担したのが学校教育ではないか。例えば沢山と漢字で書くとバツでひらがなで書かなくてはいけない。沢山と漢字で書くと「さわやま」としか読まないという妙な教育思潮の中でだんだん子供たちの学力が低下してしまった。

易しすぎる教材
 もう1つは教材が易しすぎたのではないか。昔の教科書は学力を形成したと思いますよ。漢字の学年別配当なんてないから難しい文字や言葉がいっぱいあった。昔の小6の教科書を今の大学生は読めません。算数や理科の内容は先生に教わらなくては分からない。ところが国語の教科書は先生がいなくたって読めば大体分かる。だから先生の話をしっかり聞かなくてはいけない、という意識にはならない。教材の易し過ぎることも学力低下の大きい原因だと思う。

 私は付属小にいるとき、古典を原文で教えた。古事記、徒然草。旧約聖書の文語訳などです。子どもは私が教えなくては読めないし、分からない。そこで私が読み方を教えて間単に言うとこういう意味だと教えると中身が分かってくる。読める、分かる、そうすると面白い。これを6年生からやって5年におろして4年生、3年生まで全く同じ古典教材をおろしたのです。そうしても、ほとんど子供たちの喜びはかわらなかった。分からなかったことが、教えることによって分かっていく、それが学ぶ喜びなのです。

学力の中核は知識
――戦後教育の欠陥部分が如実に現れてしまった教科だということですね。今の教育改革は国際学力テストで成績が下がったことが発端になっているが、野口先生は学力とは何だと思いますか。
 野口 要するにそれは「知識」ですよ。知識の詰め込みだとか知育偏重だとかいう言葉は、知識をなんとなく良くないものだと考えるニュアンスを持っている。しかし私は学力の中核は絶対に知識だと思う。考える力、思考力は知識を組み合わせる働きだ。組み合わせを前提として、豊富な部品としての知識が必要だ。

「学習用語」を教えよう
――国語教科で養うべき知識、学力とは何でしょうか。
野口 私はごく端的には学習用語という言葉を用いています。これは全く今国語科では市民権がない言葉で、いうならば私の造語だ。算数だったら約分、分数とか分子とかいう学習用語を教える。そういう言葉を知らなければ分数は解けない。そういう術語、テクニカルタームが国語教科にはない。例えば「心理描写」という言葉は「ごんぎつね」の文章の中には出てこない。こういうのを「心理描写」というんだよ、とか「色彩語」というんだよ、とかそういう言葉を教えておけば子どもは「この色彩語が実にいい」なんて言い方ができるようになる。

 今の授業には「ごんぎつね」を読んで感動すればよいという考えだけがある。しかし、そこで感動するのに必要とした知識とか技術が抽出されてほかの作品を読むときにもそれらが生きて使えるようにならなくてはいけない。算数や理科の授業はみなそうなんですよ。ある知識を教わるとそれを用いて他の問題を解くことができる。国語は「ごんぎつね」を教わると「ごんぎつね」だけにしか役立たない。ほかに使えるような知識や技術がはっきりしていない。

<子供観・教育論>
子供に迎合的な教育が背景に
――おっしゃったことがこれまで国語教育で実現できなかった背景がよく分かりませんが。
 野口 一番大きいのはおそらく子供中心主義の考え方だと思う。これがマイナスに働いた。子供に分からないことは悪である。だから、今の子供に分かるような言葉で話してやるのがいいんだと考える。卒業証書授与式とは正式に言わないで「卒業式」と言う。それから開式の辞は「開式の言葉」、校長式辞も「校長先生のお話」となってしまう。このように子供に迎合する言葉の安易な平易化からどんどん学力は低下したと見ている。

鍛えるという発想を 
――学習用語を身に付けることができなかったのは教育行政の失敗、指導要領の不備ということもありますか。Interview_noguchi_3
 野口 それはない。もしあるとすれば子供中心主義、子どもへの迎合主義の風潮ではないだろうか。大前提として子ども観が「子どもは善なるもの、子どもはそれ自体で完全なもの」という考え方に立っていると「鍛える」という発想は出てこない。子供はうっちゃっておいたらろくなものにはならない、というのが私の考え。だから鍛えて価値ある人間にしなくてはいけない。「人は人によって人になる」ということだ。今動物並みになっている子供がいっぱいいる。行政の失敗などということではなく社会のありようの問題だ。

子供は善悪具有の存在
――先生は教育論、教育批判の中で現代の子供観の間違いというものを根本に据えていますが、先生の子供観を改めて。
野口 子供は大人と同じく善と悪を具有している。つまり、善悪具有という1点ではちっとも変わらない。子供は無邪気というが、結構邪気がある。ずるさも残忍さも打算も、やさしさも正義感もある。だから子供は穢れがない、という子ども観は違うと思う。「お子さま幻想への疑念」という題で新聞にコラムを書いたことがある。昔は子供のことをガキといった。このガキが、と。今はそのガキがいなくなってしまってみんなお子様になつてしまった。しかし、もともと子供は善悪具有の存在だ。善を伸ばし悪を矯めるということをやらない限り決していい人間にはならないし、その子を結果的に不幸にすると思う。

単純、絶対の教育に戻せ
――その子供観の上で教育改革に望むことはどんなことでしょうか。
野口  初等中等教育というものは、単純であり、絶対的でいいと思う。その反対は相対と複雑だ。今の教育論はきわめて相対的で、そして非常に複雑。私は子供を育てる原理はそんなに複雑なことではないと思うのだ。例えば、いま道徳の教育をするのに「こうするのがいいんだ」と教えてはいけないという。どっちがいいか考えさせる、考えて自分が決めろと。まあこういう考え方、教育観が流行っている。それが子供の思考力を育て、子供の個性を大事にすることだということになる。先生の考えは言わない。だからこれは相対だ。そうではない。相対で複雑というのは大人になってからの世界だろう。そこに直面して生きていくのだろうが、子供時代はまず信じさせ、こう生きるべきだ、と教え込むべきだ。その結論を社会人になってから疑うことは当然あっていい。しかし子供のころからそういう不安定なものを教えてはだめだ。

 ある対談で「現在の教育の混迷の原因は何か」と問われて私は、「まさに心にに根っこがないことだと思う。根っこがなければ幹も太くならない、根っことは何か、それはこう生きれば間違いないという、ものはこう考えれば間違いないという、生き方や考え方の基準となる信念のことだ。この基準となる大もとは単純で絶対なものだ」と。今単純、絶対なんて事を言ったら袋叩きにあう。子供の人権無視だという訳だ。教育はこれからますます難しくなる。しかし、難しくすればするほど成果は上がらない。もっと単純、絶対という教育の原点に戻すべきだと私は思う。

<書写論>
大事な教育分野の書写
――私は書写を学ぶ子供たちは学ぶ態度ができているなと、教育効果の面から非常に評価しています。書写についてどうお考えですか。
 
野口 書写というものは非常に大切な分野だ。時代、空間を超えて世界共通の基礎学力というのは読み・書き・ソロバンだ。その2番目に位置しているのが「書く」。読めなくては書けないから2番目だが。その「書く」ということついて文章を書くということばかりに傾斜してしまって、1つひとつの文字について国語教育はきわめて希薄、冷淡だった。これは大変よくないことだと私は思っている。
――文字は書ければいいのいではないか。記号だからという説も有力にありますが。
 野口 ええ、私自身がそうだった。教師だから誤字を書いてはいけない。しかし上手に、あるいは美しく書くというのは美術、芸術の仕事だと。だから私は大学時代、書写の点数は60点だった。国語専攻生は書写が必須です。書論は点数を取れたが実技のほうは私は軽んじていた。私は小学校にいくつもりなかったですから。ところがいざ就職となると小学校の免許を取っていなくては採用されないよ、ということだった。それで、仕方なく小学校教諭の免許を取って現場に行ったら5年生の担当だった。書写の時間がある。子供はすぐに書いて、並んで「直してくれ」というわけ。これで私はこりごりして書写を習い始め5年間習った。これは非常によかった。字を書くというのは人間の教育になる
――手書きの効果はなんでしょうか。
野口 1つは文字は自分の分身だとうこと。自分の産物だ。私の師匠は先生の人生の最高の力で手本を書いてくれた。先生はよく「この手本の文字は私の分身だ」ということを言っておられた。分身だという自覚をもって字を見ると、これが私の分身か・・・と思うことになる。

 もう1つは手本を見るということが人間教育になる。いま、手本というものに自分を近づけようという学習は書写ぐらいしかないのではないか。個性表現がクローズアップされていて、書写を習うなんてことは個性をつぶすことである、などという誤解、偏見もある。基礎を駆使して個性が生まれるのだ。その駆使すべき基礎がない個性は単なる未熟な癖としかいえない。そういうものがもてはやされるのは誤りだ。私は下手で習い始めたからずいぶん進歩したと思った。しかし4年ぐらい習ったとき、師匠から「何をしに私のとこに来ているんだ」と聞かれた。「自分の字を捨てなさい」と言われた。私は居ずまいを正して反省し、お詫びをした。己を無にしてより権威のあるものに従うという人間の基本が今の教育の中でほきわめて軽んじられている。個性をつぶす、押し付けだとか誤解されている。教育は基本的に押し付けである。とりわけ初等中等教育はそれでいいと思う。
――書写は文字を扱い言葉を扱っています。文字を大事にすると言葉も大事にするということにつながるのではないかと思っています。文字をいい加減に書くと言葉も雑にあつかってしまう空気があるかなと感じますが。

野口 例えば、ある紙を渡してまず自分の名前を書かせると、きちんと書く子供と雑に書く子がいる。大学生も同じだ。雑に書く子供はまず他の面もだめね。ほかのこともそういう風になる。やはり字を書くというのは人間そのものの教育になると私は思う。まず何よりも謙虚にならなくてはいい字は書けない。ほんとにまず人は虚心にならなくてはいけない。わたしは5年間しか書を習わなかったが、その日の気分によって字の書け方が違う。いらいらしていたり疲れたりしていると気に入った文字が書けない。だから書写は単に技術ではなくて人間形成の上からも非常に大切だと思う。子供の書道塾というのがこの時代になってもあれだけ人気が衰えないというのは、単に字を上手に書くという以外に子供を引きつけるものがあるからだと私は思う。

――書写のいろいろな指導資料をみると技術的な「正しく整えて読みやすく」に加えて必ず「丁寧に」という言葉が真っ先に出てくる。丁寧は技術ではなく心構えですね。

Mainichi_noguchi_3 心を鎮める貴重な場
  野口 ええ、それは大切な態度ですね 丁寧というのは粗雑ではない、心を鎮めて書くということだ。今、子どもが心を鎮めるなんて時間は生活の中でないですよね。

――書写を習う子供たちの専修学園で「10年後の私への手紙」という作文を書かせてみたら国語の先生になりたいという子が多かったです。
野口 それは書写の影響ではないか。素晴らしいですね。ほかでは国語の教師になりたいなんて子供出てこないと思う。書写の教室では言葉を大事にしているからだろう。言葉の重みに子どもが憧れをもったり、そのことに気付いているのだろうと思う。私にとってはその話は意外です。国語の教科というのは一番人気がないからね。小学校の1、2年生までは好きなんだがどんどん下がってきて中3になると国語と家庭科が最も人気がない。

――なぜですか
 成就感がないから。向上自覚がないからでしょう。

<活動の場>
先生に根っこを植え付けたい
――授業道場野口塾とは
 私は北海道教育大を65歳で退官した。暇になると思ったから私から働きかける研究会も1つやってみようかと考えた。それで、授業道場野口塾を私が呼びかけてみたいと仲間に話したら、それはいいことだとすぐに受けてくれました。ネットで流したら北海道から九州まで4,5人が私のところでやりましょうと言ってくれた。

――いま、活動のメーンはこれですか?
 いや、そうではない。メーンは「鍛える国語教室研究会」(略称・鍛国研)。私は国語教師が本職だから。鍛える国語教室というのは私の全集の名前です。鍛える、というのは私の教育観を大変よくあらわしている言葉です。この鍛国研が日本の各地にある。いっときは雑誌も出していたが、4000部を割って出せなくなりました。もったいないからと名前を残してやっているグループもある。これがメーンだ。

――鍛国研は勉強会が中心ですか。
 野口 それと出版。そこの成果を出版する。小中の先生が集まっているが小学校の先生がほとんどだ。

――今後一番力を入れていきたいこととは。
野口 教師たちへの働きかけとしては「根本を学べ」ということを訴えていきたい。私はあちこち講演活動に招かれるが、教師が自分を改善するのではなく、他者改善の方法について教えてください、という要請がほとんどです。子供をどう育てるかということばかり考えている。しかし、教える者の哲学がなくて教え方だけを求めることをいくら繰り返していっても本物の教育にはならないと思う。

――教師を改造しようということですね。まずは。
野口 教師魂というか、そこのところが本当に欠けていると思う。だから野口塾では教養講座というのがあってこれが大きな特色となっている。求めに応じて皆さんが聞きたいテーマを話してそれに答える。これは俺がぜひ聞かせたいという話をしています。

「心の教育」で子供の人生観を耕せ
――教師にはそのひまないという説もありますが。
野口 ええ、先生方は自転車操業ですよね。私が勤めたある小学校は地域の子どもの事件の4割はそこで起こると言われていた場所でした。先生方が非常に大変です。これを見ていて私は「火を消すことばかりに夢中になっていてはだめだ、火を出さないようにするほうに意識が向いていない」と感じた。子どもの人生観、子どもの価値観を耕さない限り先生方の忙しさはいよいよ増すばかりだ、と説得し、まだ使われていなかった「心の教育」をテーマとした。そのころ「心の教育」という言葉は日本ではほとんどなかった。「心の教育」という言葉が広まったのは神戸の少年Aの事件以来だ。それで故・小渕首相が「心の教育」を言い出したと記憶している。

 私は退職の前に全国に向けて「心の教育フエステバル」をやった。2日間で。延べ1400人の教師が集まった。そのとき私が招いたゲストの1人が「心の教育なんてされてはたまらない。内心の自由にまで教育は立ち入るべきではない」と言い出した。私は強く反対した。「心をたださない限り、行動は正しくならない」と。例えばウソをつくな、正直でありなさい、というのは心の教育です。そういうことができないなんてとんでもない、と主催者として反対した。

「感化と影響」で心に食い込む教育を

 どの先生もなまけてなんかいない、へとへとになってやっていて成果があがらないのは「教育とはなにか」とか「今やっていることはこれでいいのか」という大事な根本を考えていないからだ。軽くて、表面的で行動的で多忙だ。だから教育全体がやせていく。教育の根本目標は「感化と影響」なんだが、今は「教育は伝達だ」という錯覚がまかり通っている。だから学力を高めなくてはならないとか、体力を高めなくてはいけないとかばかりで騒ぐことになる。「感化と影響」によって個々の子供の心に食い込む教育が足りない。先生方にはそこに気付いてもらいたい。野口塾を出た人間はちょっと違うというようになってほしい。塾に来てくれてる人はそういうことに気づいているからリピーターが多いのだと思う。(おわり)

2006年5 月18日 (木)

近藤信司文部科学審議官

Photo_3 教育基本法改正案論議が国会で始まった。憲法改正に次ぐ重みを持つ、と政治的な重要性が強調される一方で「それで教育がよくなるの?」と国民の関心は今ひとつだ。実際の教育行政を担う文科省の責任者、近藤信司文部科学審議官に行政側の言い分をまずは聞いてみた。
(インタビューは06年4月20日、文科省内で行った。その後政府は同29日、教育基本法改正案を国会に提出、文科省は同省ホームページに法案特集ページを立ち上げた)

―これからの文教行政の懸案は何ですか
近 藤 教育基本法の改正です。憲法と同じように昭和22年(1947年)にできて以来一度も改正されたことがありません。平成15年(2003年)に中教審 から改正するべしという答申を受けてから3年。この4月13日に与党協議会で意見がまとまりました。政府としてこれから改正の作業を進めていく段階になり ました。

―いよいよ文科省の出番ということですが、文科省としてはすでに検討作業はしてきたわけですね。
近藤 省の中では試験的にいろいろ検討作業はしてきましたが、これからは答申を最大限に尊重して改正の作業を進めていくことになります。
―大変な作業になりますか。
近藤 教育基本法はそう長い条文ではありません。理念法ですから。しかし、昭和22年にできた法律ですから新しく付け加えるべき理念というものもあります。例えば、中教審答申でも指摘されている生涯教育などがそうです。

― 国民の中には教育基本法が変わっても教育が良くなるの?という冷めた声があります。
近 藤 基本法というのは理念法ですからそう見えるのですね。新しい理念をまず明確にして其の後に具体的な施策に反映させていきます。学校教育法や学習指導要 領などに反映していくわけです。また、与党協議では教育振興基本計画を策定するという条文も入っています。こうしたことをトータルでやっていくわけです。 そして学力の問題とか不登校の問題とかが次のステップに来るわけです。まさにその第一歩を踏み出すということです。ただ、改革を担うのは教員であり学校、 地域です。それらの連携が必要です。大きな議論が巻き起こってほしいと思っています。

―大きな改革ですが国民にはまだよく分かっていません。
近藤 与党の協議も言葉だけが独り歩きしないようにというような配慮から必ずしもオープンにしてこなかったから伝わらなかった部分があるかもしれません。

―文科省としてはそこのところをどうしますか
近 藤 国会で論議されるようになれば関心も高くなると思いますが、文科省の段階でも課題の中身を国民に分かりやすく説明する努力をしていきたい。これはは理 念法であり改正ができたら次は何をやるのか、学力は、子どもの非行はどう防ぐのかなど次のステップを考えていくことをよく説明して改革を一緒に考えてもら うように関心を高めて行きたいと思います。

―改正の具体的な内容は
近藤 義務教育って何だ、ということをはっきりさせる必要があ ります。幼児教育をどうして行くのか、幼児教育に金がかかり過ぎるという問題もありますね。こうした議論をこれからやっていかなくてはいけません。与党協 議でも指摘されたことですが、義務教育の目標を明確にしていく必要があります。そして高校のあり方をどう考えるか。高校の位置付けがよく分かりませんね。 実際には97%の子どもたちが進学しているのですが。大学への準備教育なのか職業教育なのか。一般教養としての部分もありますね。それに現在の基本法は義 務教育の年限は9年と書いているのですが、年限は基本法では書かず法で定めようというのが与党協議の方向ですね。(文科省として)当面義務教育9年を変え る方向にはないけれども将来的には10年にするとか、6歳から下に下げていくことを議論していく必要があります。与党協議でもこうしたテーマがいろいろに 話し合われました。愛国心だけがクローズアップされていますがそうではありません。

―愛国心についての与党協議を文科省としてはどう受け止めていますか。
近藤 学習指導要領の中に「郷土や国を愛する心を養う」ということはすでに入っていますから特に抵抗感はなかったですね。
―学習指導要領の改訂が取りざたされていますが。
近 藤 ゆとり教育批判が手抜き批判的なイメージで語られるのは残念です。確かに「ゆとりと充実」を目指す中で「充実」が抜けてしまった面はあるのでしょう が。いずれにしろ指導要領はほぼ10年置きに改訂してきており18年度中にも改訂をする方向です。これは授業時間数など保護者の方にも関心の深い問題です ね。
―教育基本法の改正と密接にからむ改訂になりますね。
近藤 まさにそうですね。

―総合的な学習の時間を見直す動きがありますが。
近 藤 総合的な学習の時間はすばらしい1つの分野だと思います。ある意味で学校の裁量に任せるものとして国が一律に「こうしなさい」とは言いませんでした。 現実にはすごく素晴らしい取り組みもあったしそうでない授業があったのも事実。支援体制や授業時数をどうするか、などが課題としてあります。

<プロフイル>
東京都出身、58歳。昭和46年文部省入省。昭和54年から2年間、岡山県教育委員会で文化課長を務めた以外は虎の門の本省暮らし。初中局小学校課長、高 等教育局大学課長、大臣官房総務課長などを歴任。平成12年大臣官房長、12年生涯学習政策局長、15年初中局長を経て16年から現職。科技庁と合併した 文科省内で旧文部官僚のトップの位置にいる。