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2006年11 月29日 (水)

 いじめっ子の出席停止は盛り込まず;再生会議一転

  政府の教育再生会議は29日午前、首相官邸で総会を開き、8項目のいじめ対策緊急提言をまとめて発表した。いじめは「反社会的な行為」で「見て見ぬふりをする者も加害者」とするなど厳しい態度を打ち出したが、すでに新聞報道されていた「いじめっ子は出席停止」措置の明記(27日、当欄参照)は見送った。(各紙29日朝刊、29日夕刊)。<「出席停止」明記見送り>を主見出しに取った朝日(29日夕刊3面)は「委員から慎重意見が出たことや、1948年に『懲戒の手段として授業を受けさせないという処置は許されない』との当時の法務庁長官の見解があることなどから見送られた」としている。

<谷口のコメント
◎議論をオープンにし世論とともに歩め◎
 27日の朝刊1面で出席停止措置の厳格な適用明記が決まったと大きく報じた毎日は29日朝刊1面で「いじめをした児童・生徒に対する『出席停止措置』は、子どもにストレスがかかる(委員)という懸念などから明記は見送ることになった」と一転、見送りを伝えた。文字通りの再生会議の軌道修正なのか、あるいは新聞の側の見込み報道による誤報なのか判然としないが、わずか2日で最も重要なポイントが逆さまになるとはなんといういい加減さだ、再生会議も新聞も。提言そのものはここをはずせば「これまでの施策を超えるものはなく、強制力もないことから、実効性があがるかどうかは今後の課題だ」(朝日)という内容である。

推測するに出席停止措置の明記には文科省サイドが強く反対したに違いない。長い年月、様々な理由、事情から伝家の宝刀「学校教育法26条」(出席停止措置)を抜けずに来た痛みを一番感じているのはほかならぬ文科省であることは27日の<谷口のコメント>を参照していただければあるていど理解していただけるだろう。文科省に対して何とかメリハリを付けたい勢力も再生会議の中にあるはずだ。そのぶつかり合いの中で一方のプロパガンダに新聞がうかつに乗った、というのが今回の「訂正報道」の真相ではなかろうか。29日のテレビを見ていたら、伊吹文科相が「反対ではないけれど慎重でありたいという気持ち」と述べていたが、まさに文科省のメンタリティと閣僚としての立場の板ばさみを感じた。

ここでも痛感するのは再生会議が事実上の密室審議となっているマイナスである。学校を直接ダメにしている問題児を、法律にもその定めがあるにもかかわらず、なぜ排除できないのか、そのことに関する議論のプロセスが今の時点で見えないのでは、教育改革の実があがらないのではないだろうか。「議論を世間に晒していてはまとまるものもまとまらないだろう」という役所的なこずるい発想からマスコミを締め出したところで会議を進めるのは間違いだ。いまからでも遅くないから会議をオープンにし、「26条バトル論議」も白日の下に晒しながら国民のコンセンサスを作り上げていくことが、時間はかかっても改革の本道ではないだろうか。

2006年11 月27日 (月)

いじめっ子、出席停止に;再生会議提言へ

  政府の教育再生会議が今週中に発表する「いじめ問題への緊急提言」の概要が26日明らかになった。いじめた側の児童・生徒への「出席停止」措置の厳格な適用、いじめを助長した教員への懲戒処分が柱となっている(毎日27日朝刊1面)。問題児の出席停止は学校教育法26条が認めるところだが、02年1月の法改正で問題行動の内容が「他の児童の心身に苦痛を与える行為」など基準が明確にされた後も適用例はごくわずかにとどまっている。再生会議は「運用が遠慮がちで効果が上がっていない」と分析し、積極的な適用を提言することにした。教員の懲戒処分はこれまで不法行為や体罰が中心。一部の市町村教委ではいじめを助長したり加担することを処分対象にしており、再生会議はこうした措置の拡大を目指す。

 <谷口のコメント>
 ◎排除路線で効果はあるのか?◎
 安倍教育改革は最初からこれまで取りざたされてきた改革メニューのチリを払って並べて見せる「焼き直し改革」の様相を見せている。文科省メニューの焼き直しばかりだ。大学の9月入学やバウチャー制度が代表的だ。改革に妙案なし、ということなのかもしれないが、ほとんど根本的な議論をしないで表面だけの対応策を並べようとする政治的パフォーマンスのせいもあるだろう。今回の「出席停止」もホコリまみれの対応策ではある。

いわゆる米国流「ゼロトレランス」(寛容度ゼロ指導)の潮流についてはこのコーナーでも5月23日と6月17日の2回、取り上げた。国立教育政策研究所と文科省は5月23日、問題行動を起こした小中学生を出席停止とするなど厳格な対応を求める報告書を公表、文科省は6月、この報告書に関する通知書を出し、地教委にゼロトレランス方式を参考にして指導方法の確立に努めることなどを求めた経緯がある。

問題は、この20年間、抜かずの宝刀「学校教育法26条」の積極適用が叫ばれながら、なぜ現場がついてこないかを根本から考えて処方を見出すのが再生会議の仕事ではないか。それを「何だか遠慮がちだ」程度の認識で「宝刀を抜け」の号令を出そうというのはいただけない。
全体に今回の教育改革路線は政府の威光をカサに着て蛮勇を振るおうとする武断路線に見える。教育という営みは一刀両断に決することにはなじみにくい。グレーゾーンをじっくりと議論することが必要だ。学校の怠惰もたしかにあるけれども、誰が加害者かを見定めることは言うほど簡単ではない。さらに学校という教育の場から子どもを排除することは極めて重い措置である。排除の論理は教育的ではない。

再生会議緒でどのような議論があったのか知りたい。結論だけが闇の中から放り出されてくるような新聞報道が続いている。首相官邸ホームページの再生会議コーナーを見ても、分科会の議事要旨でさえも3週間前のものしか掲載されていない。教育再生分科会(第3分科会)にいたっては開催日時さえ書かれていない。まだやっていないということか?どうも議論が見えないもどかしさを多くの国民が感じているのではなかろうか。

2006年11 月25日 (土)

寝る前
タラコは 5冊 本を読む
ねむくて どうしようもないくせに
きっちり 5冊 読めという
読み終わると 何も言わず
わたしの上を ズシン ガシンと 踏み越えて
枕もとの 灯りを消す

ふっと訪れた 暗闇のなか
わたしの横に もぐりこむ
小さな声で 「ぺったんこ…」と
ほっぺを わたしのほおに くっつけて
そして 両手を わたしのほおに あてる
そのまま わたしのほおを つつんだまま
じーっ…… のち すー… すー…

ずるいなぁ
おなかがすいたと だだをこね
かといって まじめに 食べないし
泣きわめいて おしっこ もらすし
くしゃみして 牛乳は ふき出すし

もー やんなっちゃうこと いっぱいなんだけど
一日の終わりに
この 小さな両手に つつまれると
頭のイライラも 頬のピクピクも ガミガミの口も
ぬくもりのなかに 
すべてを まあるく おさめられていくようで

いちばんすてきな 手のつかい方
もう知ってるなんて
ほんと
あなたには かないません…

2006年11 月18日 (土)

 1日で中高生が3人も自殺

 17日、福岡県で中学生が2人、横浜市で高校生が相次いで自殺した。いずれも動機ははっきりしていないが、いじめを疑わせる状況は今のところ出てきていない(18日読売朝刊社会面ほか)。
 午前9時40分ごろ、福岡県桂川町の公園で中学2年男子生徒が首をつって死んでいるのが見つかった。15日から家を出ており捜索願が出ていた。午後5時ごろ、同県宗像市内の中学2年男子生徒が自宅で首つり自殺しているのが見つかった。いつもどおり午後4時ごろに帰宅したばかりだった。午後8時20分ごろ、横浜市戸塚区のマンション敷地内で同マンション10階に住む私立女子高2年生が血を流して倒れているのが見つかった。女子生徒は搬送先の病院で死亡した。状況から警察は自殺と見て調べている。

<谷口のコメント>
◎自殺した子の学校名を報じよ◎
 これまで子どもの自殺問題を何度か集中的に取材・紙面展開した経験から言って、マスコミ報道によって連鎖が誘発されるのではないか、という疑念を常に抱いてきた。特に、テレビがセンセーショナルな画面を連続して流すような展開の場合、その傾向が顕著になるのは否めない。今回もそうならなければいいが、と心配していた。報道に関係する者として忸怩たるものがあるが、事実は報道しなくてはいけないところがつらい。報道は必要だが紙面扱い、内容の両面でセンセーショナルな過剰報道は避けなくてはいけない。その意味で、この日の各紙朝刊は抑制が効いていると言えるだろう。

 それにしてもこの状態は異常だ。子どもたちの世界がいかに息苦しいものになっているか、暗澹とした気持ちで記事を読んだ。自殺の背景を徹底的に取材、報道するべきだ。警察の徹底した捜査を促がし監視するべきだ。警察も自殺の動機を解明するのは当然の責任であり、教育環境に留意しつつ十分に捜査し、情報を極力マスコミに公開していく姿勢がほしい。
これに関連して、学校名は実名で報道するべきだ。事件によって学校名が実名、匿名ばらばらだが、死者の名誉を尊重し、在校生に過剰な不安を与えないように留意しながら校名を明かして報道することが大事だ。匿名では地域社会の関心を結集して原因を追究していく力が弱くなる。教委や学校は何が生徒を死に追いやったのか、教育者、機関として真剣に調べて欲しい。実名報道はそれを促がすことにもなるだろう。

難しい子どもの自殺捜査・取材

 そのころ僕は教育取材班に属して「こどもの自殺」を追っていた。全国最年少の小5自殺の取材で現地に飛んだ。新聞の一報は「動機不明」。まずは飛び込んだ地元警察署の刑事課で、たまたま居合わせたのがその刑事だった。50歳を少し過ぎたぐらいか。事情を言うと彼は「ワイが担当したけど、無理や。やめとき」と、取り付くしまもない。

それから丸3日。「いじめられていた」「先生にも」という有力情報を得て徹底的に周囲を洗った。夜中に訪ねあてた担任女教師の家は岬のはずれ。「東京から記者さんが見えたよ。はよう出てきなさい」。母親がいくらとりなしても女教師は顔をみせなかった。死んだ坊やの母親は「ほっといてんか」と小走りに逃げた。校長は記者の不意の訪問に「あの子がかわいそうで」と泣くばかりだった。

それでも事件の輪郭は浮かんできた。深刻な人権問題がからむ複雑な背景が見え隠れしていた。最後に再び警察を訪ね自分が推理する自殺動機を話すと、彼は「よくそこまで行き着いたな」とほめてくれた。そして「これ見てみ。ひとつのヒントや」と机の引き出しから数枚の写真を取り出した。

横たわったイガグリ頭の坊やをいろいろなアングルから写している。検死写真だ。その一枚を取り上げて「この線をよく見てみ」と言った。首に紐の跡がくっきり真一文字に入っている。「首の後ろの線にも乱れがない。見事な覚悟の自殺や」。確かに、きっぱりとした紐の跡は坊やの深い絶望と悲しみを表しているように思えた。普通は首を吊ったとき苦しくてもがき、引っ掻くことが多いという。人はやはり生きようとするのだ。「そやけど子供は欲がないさかいこの世に未練がないからどもならん。色と欲にまみれた大人と違ってな。子供の自殺は難しいで」。刑事は諭すような表情で言った。

もう1つ、僕の推理が当たったのは死亡推定時刻だった。その朝、いつものように家を出ながら坊やは学校へは行かなかった。ぽつぽつと目撃情報はあるが、畑の小屋でいつ首を吊ったかは不明だ。聞き込みに行き詰って現場にたたずんでいるとき午後5時のチャイムが流れた。「夕焼け、小焼けで日が暮れて…」。もやがたなびく田園にメロディアが流れていく。「あっ、これだな」と僕は思った。学校をサボって一日徘徊した坊やはチャイムを聞いて「もうこれで家には帰れない」と思ったのではないか。明日への絶望がその背中を押した…。

 「自殺の動機はあんたはんの考えている通りかも知れん。でもワイらがさわれん世界もあるちゅうこっちゃ。これ以上は言えん」。ベテラン刑事は目にいっぱい涙をためていた。

自殺捜査でもっとも大事なのは動機である。この場合は「首吊り遊び」の事故も疑われたから自殺と断定するために警察は精一杯の捜査をしただろう。そして「犯人」が浮かんでも犯罪捜査と異なり逮捕するわけにはいかない。世間にも口をつむぐしかない・・・。

あと2日もいればその涙を突破できたような気もするが「急ぎ帰京せよ」のデスク指示は飛んでくるし、おそらく記事にはできないだろうという予感もあった。

 

同級生殺害など小学生の特異な事件が相次ぐ今、奥底が分からない、子供が見えない、という思いは募るばかりだ。「あのときやはり、とことん取材をやっておくべきだった」と思う。あの刑事は「捜査では追いきれない奥底も、新聞ならのぞく方法もあるのと違うか」と言いたかったのではなかろうか。

(このコラムは2年前の秋、ある記念誌に寄稿したものを若干直したものである。昨今の状況に込めた思いは一層強い)

2006年11 月17日 (金)

履修科目負担減は受験生への媚だ;毎日記者の目

 毎日新聞盛岡支局の林哲平記者は17日朝刊記者の目で<履修不足・高校4割の岩手で思う/負担減「受験生へのこび」/諸君 何のため学ぶか>と主張した。

熊本を除く46都道府県で発覚した高校の履修単位不足問題で岩手での該当校の比率は全国トップクラスだった。記者はこの主因は「受験後進県」と言われる岩手の事情だと最初は考えた。予備校によるセンター試験の自己採点調査で岩手は7科目総合47位、つまりどんじり。予備校が少なく今の大学受験体制の中では後進県にならざるを得ない。だから、必修科目でも履修せず、受験科目の勉強に集中せざるを得なかったのだろうと思っていた。

しかし、現場を歩いて生徒たちの姿を見、学校長たちの声を聞いていくうちに何かが違うぞ、と思い出す。「誤るだけじゃすまない」と校長に怒りの声を上げる生徒、「おかしいと思っても生徒の人生設計を考え、ニーズに応えるのも仕事」と言う校長。取材を重ねた結果、記者は「この問題の一番の原因は『子どもへのこび』にあるのではないか」と思い至った。「何を学ばせることが必要か」の議論を欠いた大人の表面的な「子どものために」という思いが幅を利かせてしまっていないかーーそう考える記者は「受験生であることが免罪符になるわけではない」と言い切る。その上で「何のために学ぶのか。自分たちが当事者となった問題を通じてくみ取れることは多いはずだ」と高校生に呼びかけている。

<谷口のコメント>

◎全国の高校でこの「記者の目」を音読させよ◎
 公明党の無節操な人気取り体質と文科省の弱腰で、高校の履修逃れ問題の事後処理は極めて非教育的な経過をたどった。与党が決めた「救済策」と称するものが70時間やればいいのか50時間でいいのか、分かりにくいのと、今度の騒ぎが良いことなのか悪いことなのか高校生にきちんと教えようとする構えが欠けていて「実にいい加減決着」の印象を強めている。しかもいまだに責任の所在もあいまいだ。高校生たちへの悪影響は計り知れない。

こうした中で林記者の「記者の目」は言わなくてはいけないことをきちんと言ってくれた記事である。論旨は極めて常識的な線だ。しかし、渦中の現場を走り回り、その中で考えた説得力を持っている。「どうしてくれる」と校長に詰め寄るガキどもには大人がガツンと言ってやる必要がある。それを言ってくれて胸のつかえが降りた気分だ。「記者の目」はもう数十年も続く毎日の人気コラムだが、当たり前のことを当たり前に言うことの大事さを思った。写真から見て記者は30台半ばぐらいか? 全国の高校である朝の10分間、生徒にこの記事を音読させて世間の目と言うものを教えてはどうだろうか。

2006年11 月16日 (木)

与党単独で教育基本法改正案が衆院通過

  衆院教育基本法特別委員会は15日夕、自民、公明の与党が単独採決に踏み切り、民主、共産、社民、国民新の野党4党が欠席のまま賛成多数で教育基本法改正案を可決した(16日朝刊各紙)。法案は16日午後の衆院本会議で野党欠席のまま可決された。法案はすぐさま参院に送られ17日の参院本会議で趣旨説明や質疑を行う予定だが野党は国会審議を拒否して徹底抗戦の構えだ(各紙ウエブ版)
 <谷口のコメント>
◎国民投票にかけよ◎
 教育基本法はまさに教育の憲法であり、日本および日本人の価値観形成に密接に関係する法律だ。憲法に準ずるものとして国民投票にかけてはどうだろうか。投票の手順については法律を作って行いたい。基本的には一定数以上の国会議員数で提案された法案を投票対象に、投票権利者(有権者)の一定割合以上を獲得した法案の中から最上位の法案が可決されたものとすればいい。投票権利者は18歳以上とし、最低得票率は有権者数の3分の1くらいが適当だろうか。現状で言えば候補は与党案と民主党案である。そのどちらかが有権者の3分の1以上の支持を得ることは難しいのではないかという気がする。今回の与党単独採決はそれほど国民意識から遊離したものではないか。基本法の内容を国民に理解してもらい、改正の必要性について考えてもらうためにも「強行採決」「審議拒否」の選択肢しか持たない国会はもっと工夫を図るべきだと思う。

2006年11 月14日 (火)

15日衆院委で強行採決か;教育基本法改正案

14日朝刊各紙が予想として流した。<与党、強行採決の構え/週内の本会議で>(毎日5面)、<強行採決辞さぬ構え/週内に衆院通過方針>(朝日4面)、<会期内成立微妙に/与党、強行採決方針 空転も>(読売1面)と少しずつニュアンスが異なる。
最も微妙な形勢とする読売は4面で<参院 日程厳しく>と全体状況を説明した。野党は「いじめ自殺」「高校必修逃れ」「タウンミーティングのやらせ質問」の“教育3点セット”を追い風に審議の引き延ばしを図っている。一方、政府与党は年末に向けてスケジュールがきつい。安倍首相は今週末からアジア太平洋経済協力会議(APEC)、12月上旬には東南アジア諸国連合と日中韓(ASEANプラス3)の二つの首脳会議に出席するなど外交日程が詰まっていてこの間は国会に出られない。衆院通過が遅れれば遅れるほど12月15日の会期末までの参院審議の時間がなくなる。あるいは国会が年末までずれ込み紛糾すれば、初の予算編成に専念できない事態も予想される。今週末に控えた沖縄知事選への影響も心配される。こうしたことから与党の中にも強行採決は避けたいとの考えも強まりつつあるという。さらには1週間から10日ほどの会期延長、あるいは継続審議にする案さえ浮上しているという。

<谷口のコメント>
◎いじめ対策にならない改正案は意味がない。仕切りなおしを◎
 今や教育改革の最大のテーマは学校に蔓延する「いじめ」退治となった。いじめをどうして無くすか、同時に悲惨な結果を招かないようにするにはどうすればいいか、この課題をいかに解決するかが国民の関心事となっている。その折から、教育の憲法とも言いえる基本法の改正が行われるわけで、その点への対応が十分に改正内容と関連付けて審議されなくてはいけないのは当然だが審議が足りない。「理念法だから具体的なことは後で」というのは逃げ口上であり、詭弁だ。理念法だからこそ教育の危機の打開に向けた光明とならなくてはいけないのではないか。役に立たない理念法なら下手にいじって害になってもいけないから放っておけばいい。それを国民注視の中で、子どもたちも見ている前でみっともない強行採決の混乱振りを披露するのはやめて欲しい。この際、継続審議にしてもう一度練り直しの議論をしよう。

2006年11 月13日 (月)

「何を教えるべきか」をもっと語れ;伊吹文科相緊急記者会見

  「いやー、昔から存じ上げている方が多くてお話しし難いですね」。13日午後、内幸町の日本プレスセンターで開かれた記者会見に臨んだ伊吹文明文科相は開口一番こう語った。「緊急会見」と銘打たれているように現在最もホットなニュースの当事者の会見とあって10階ホールは200人近い記者が詰め掛けた。教育担当の社会部、政治部の現役記者の姿もあるが、圧倒的にOB記者の姿が多い。「昭和の初期に小学校教育を受けたのだが」。こんな前をふって質問をする人もいた。

「いったい最近の日本はどうなっているのか」。開会前、あちこちで聞かれた会話である。この日のお昼のNHKニュースはトップから延々3件も4件も子どもや先生の自殺が取り上げられていた。うんざりであり、不気味だ。しかし、この状況がひとり文科省の責任でないのは明らかだし、文科相が緊急会見したところで何かいい知恵を発表できるはずもない。最初から何が緊急なのかよく分からない会見だったが、案の定、ほとんど新味のないものだったのはいたし方ないだろう。

ただ、毎週火曜と金曜の朝、閣議後会見を文部記者会相手にやっている伊吹氏としては、トピックはそちらのほうで散々やっているので日本記者クラブでは教育荒廃のよって来たる背景や教育改革の思想について語ろうと考えたのだろう。トピックに関しては質問に答えるだけにし、最初の30分ほどは保守とリベラルの考え方の違いなど広く高次な見地からか改革を語った。この内容については半月ほどのうちに日本記者クラブホームページ(http://www.jnpc.or.jp/)に会見速記録がでるだろうから、ゆっくり読み返してみたい。なかなか座標軸のしっかりした政治家との印象を受けた。

 しかし意図は分かるが物足りなかったのは、子どもたちに何を教えればいいのか、という見地からの発言がほとんどなかったことだ。「美しい日本語も話せないのに小学校で英語をやる必要はない」と語ったという伊吹氏だけに、もっと何を教え、何がいらないのかはっきりと語ってくれることを期待していたから残念だった。教育の真髄は、何を教えることで子どもたちがどう変容するか、というところにあるのではないか。彼自身も指摘する戦後社会のゆがみが学校教育のどのような不足から生まれ、是正していくためには何を教えなくてはいけないか、という角度からの発言がほしかった。

 同氏は官邸主導の教育再生会議に対しては「中教審の分科会でやるようなちまちましたことをやっても仕方がない」とけん制した。言いたいことは分かるし。その通りだが、教える内容の論議は決してちまちましたものではなく、根幹の論議である。例えば「命を大事にする」気持ちを子どもたちに植え付けるには何をどう教えるか、また例えば日本文化の根幹をなす文字教育を充実させるためにはどうするか、こうしたことを大いに論議するときだ。広く家庭のあり方、地域社会の教育力について論議することもこの際やるべきだが、「学校で何を教えるか、その優先度」をもう一度根本から見直す作業が改革の中心にぜひあるべきだと改めて思った。

2006年11 月 8日 (水)

学校予算、ランク分けせず伸び率で配分;足立区教委が軌道修正

 学力テストの学校平均点に応じて小中学校をランク付けし、それに応じて学校予算の一部を配分する方針を固めていた東京都足立区教委は7日、各方面の批判を浴びたことからランク付けは撤回、テスト結果の伸び率を大きな判断材料にする方式に軌道修正することを明らかにした(朝日、読売8日朝刊)。同日の区議会文教委員会で内藤博道教育長が答弁した。新方式では各校から提出される予算案に基づいて1校ずつ査定、学力テストの成績は伸び率によって学校に加点する形で予算を上乗せする。方式変更について内藤教育長は「Aはよい学校でDはデメな学校などと誤解されやすい制度だなと思った」と語った。伊吹文科相は8日の衆院文部科学委員会で「学校の評価を進学率などで評価する風潮を助長させてはいけない。やめたのは非常によかったと思う」と答弁した(朝日9日朝刊社会面)。

<谷口のコメント>
◎本質は変わっていない問題方式◎
 学力テストの成績を学校予算に反映させるという意味では本質は変わらず問題だ。一部の新聞論調で「せめて伸び率対応にしたら」という社説があった。間違った指摘だと懸念していたら、すかさずそこに乗じられた感じを受ける。児童生徒がたとえ学力テストで悪い成績だったっとして、予算配分で制裁を受けるいわれはない。しかも義務教育でこういうことがまかり通っていいはずはない。足立区の学力テスト成績の低迷は、いわゆる周辺区格差と言われてきた実態を含め広い見地から検討し、対策を講じていく必要があるだろう。