2011年2 月 1日 (火)

行ってよかった! 高濱先生の講演会

12月の朝日新聞、土曜版Beの「フロントランナー」に花まる学習会代表の高濱正伸さんが載っていました。

 

“「10歳までの教育」にこだわる”――この見出し。6歳児を持つ親としては、そそられます。そういえば、著書の広告で名前はよく見るな~どんな人なんだろう・・・・・・『私が育てたいのは、受験を勝ち抜く人間じゃない。どんな時代にも、1人でメシが食える大人なんです』『勉強も人間関係も仕事も、根っこは10歳までの教育。それまでに自分で考え、壁を乗り越えるおもしろさを教えないと、いくらいい大学に送り込んでも社会で生きていけない子を育ててしまう』。ふむふむ、いちいち深くうなづきながら読み進む・・・。そして、驚く。ご自身のご長男(11歳)は重度の脳性マヒなのだと。障害者向けのコンサートを開催したり発達障害児の教育支援もしているという。

 

人生順風満帆の頭でっかちオヤジってわけじゃなさそうだ。この人、ただ者ではないな・・・と思ったら、じっとしていられない!早速、講演会に出かけてみました。

 

これが、おもしろかったの何のって。学習会で育ててきた子供の事例を挙げながら、子供の力や成長についてお話しされるのですが、子供の心理をつき、母親の心理をつき、父親の心理をつき、表情豊かにテンポよい巧みな話術で飽きさせない、というよりゲラゲラお母さんたちが笑ってる。もちろん私もゲラゲラ。講演会兼お母ちゃんたちのストレス解消会みたいな感じです。まさにカリスマ先生。

 

たくさんお話があったなかで、共感したことをあげると、4~9歳は「第1の箱」11歳~18歳は「第2の箱」なのだと。第2の箱は一番いじめも激しく、厳しい時期だ。だから第1の箱では、もまれる練習を学校にしに行っていると思い、トラブルはむしろ「財産」と思うこと。親が騒ぎ立てて事件化してはいけないのだと。1の箱でいかに経験を積むか、その豊富さがその後の乗り越える力を養うと。

 

また、高濱氏は、野外体験をとても重視している。それは、親から離れて、異学年で生活をともにすることで、ぶつかり合いも起きる、でも身近にこんな風なお兄さんお姉さんになりたいというモデルを見ることもできる。異学年同士の活動はいろんな「化学反応」を子供に起こし、人間として育ついい場になると。そして、そこでの成功体験によって、その子が殻を一つ脱いで乗り越えていくのだ、と。

 

そして「よかったね運動」。怒ったり泣いたりがあっても、一日の最後を「よかったね」と言って終われるようにすること。「××だったけど、○○してよかったね」と何でもよかったよかったにして終わるのが大切だと。寝る間際まで「早く寝なさい!!」と怒鳴って終わりにしちゃダメですよ!と耳の痛いお話でした・・・。

 

難しくエラそうな教育論はありません。むしろ当たり前のお話とも言えます。でも、母親のモヤモヤした気持ちを、うまく笑いに変えて、あなたの気持ちはわかりますよ、その悩みはあなただけじゃありませんよ、でも子供の力ってこんなにすごいですよ、信じましょうよ、って受け止めてくれる・・・そんな講演会かもしれません。ストレス解消を兼ねて、また行ってみたいな~と思ってます。

 

 


 

2011年1 月 6日 (木)

ちょっとの吉でいいんです

  夫とタラコと3人で初詣に行きました。昨年は荒波の一年でした。本当なら4人家族になったはずの我が家。タラコの妹がお腹で亡くなり、今は小さなお骨になって家に居ます。私はその妊娠の影響で体を壊しました。今も病院通いが続いています。泥水を飲み続けたようなこの苦しみから何とか抜け出す一年にしたい……今年は3人で祈祷をしてもらいました。

 

 夫は「厄除け」、タラコは「身体健全」、私は「当病平癒」。読経が終わるまで、タラコは手を合わせつづけ、じーっと目を閉じていました。そうしてなさい、と教えたわけではないのに、自然とそうやったことに、タラコの心の底の思いを見た気がしました。タラコ6歳。自分の家に母親に何が起きたのか、もうはっきりと分かっています。心から楽しみにしていた妹の存在が、今はないという現実を彼女なりに背負っているのです。
 

  祈祷を終えると、タラコがおみくじを引きたい、と言い出しました。私はここ何年も引いてません。タラコの心臓の病気のことがあってから、「凶」が出ると不吉なことが本当に起こってしまいそうな気がして、やめていました。 どうしても引きたい、というタラコ。「じゃあ、お父さんと引いておいで」。おみくじ所から戻ってくる夫の心底安堵の顔。タラコとともに「吉」でした。

 

 夫のは「すぐにいい方向へは行かないが、ゆっくりと一歩一歩事に当たれば、物事は好転していく」とのこと。タラコのは「やることはどんどん上手くいく。ただし、歓楽に浮かれているとよくない方向へいく兆しもある。自分の身があることは父母のおかげであることに感謝をし、その心を忘れずにいるように」。

 

 家でもいろいろあったし、難しい仕事でなかなか思うようにいかず四苦八苦してる夫にピタリと当てはまるようなお言葉。タラコも、お調子者でおっちょこちょいな日常を見透かされたようでびっくり。同じ「吉」は吉でも、こんなにそれぞれに当てはまるお言葉が出るものかしら・・・・・・えーい!私も引いてみるか!

 


 で、出ました!同じく「吉」。まずはホッ。そして一行目「病、緩やかながら快復の兆しあり」。これまた現実にピタリ、怖いぐらいびっくりです。そして「他への思いやりを忘れずにいれば、少しずつ運もよくなっていく」とのこと。

 

 

 期待とか希望とか抱くのに疲れ果てた私。でも100円おみくじにちょっと励まされて、今年は少しいいことありそうかな。

 

2009年9 月 7日 (月)

お宝発見!渥美清の語り

私の母は、かなり物持ちのいい人で(「捨てられない人」ともいうが・・・)、どこにしまってあったの???とびっくりするくらい、私が子どもの頃のものを大切にとっておいてくれている。
おもちゃ、おまる、洋服、本・・・。

なかでも、本は本当にありがたい。今やロングセラーの本の初版本だったり、定番絵本『はじめてのおつかい』や『こすずめのぼうけん』などは、当時の月刊配本「こどものとも」のペーパーバック版で存在している。これは貴重ですよ!
子どもの時分は作者の名前など気にしてなかったが、今改めて手に取ると、有名な作家の作品だったりして驚いたりもする。
そして、名作だと思うのに絶版になってしまっている本もあり、それを今タラコに読んであげられるのは本当にありがたい。
本とは、時代を超える絶対的な財産。

そして、びっくりものの隠れ財産を発見した!
『日本と世界の昔ばなし』という、レコードと本がセットになった全24巻。一枚のレコードの裏表で1話ずつ収録されており、全部で48話。東京こども教育センターというところの発行物で、たしか通信販売かなんかで買ったような記憶がある。大好きで大好きで、風邪を引いて寝ているときなどは特にずっとこのレコードを聴いていた。
それが30数年を経た今も、ダンボールの中に綺麗な状態で保存されていて、心から母に感謝の気持ちがあふれてくる。

さっそくレコードプレーヤーを購入した。
プレーヤーの針をレコードの端に落とす瞬間の、ちょっとした緊張と微妙な弾力、そしてプスプスプス・・・という始まりの独特のノイズも懐かしい。

ともかく、タラコに聞かせてやろうと、手にとってよく見て・・・・たまげた!!!!
監修が、ギリシャ神話や北欧神話、ムーミンなどの翻訳で知られる山室静。児童文学者の坪田譲治。そして・・・・・
「渥美清」「米倉斉加年」「北林谷栄」「熊倉一雄」・・・・!?
な、なんと、そうそうたる名優たちが語りをしているのだ。
これはすごい!!子どもの頃はこのすごさを知りもしなかった。

    「へっへっへ」
    つるりとかおをなぜると しげみのなかから でてきたね。
    わざと 何にもしらないかおして でてきたね。

・・・・なーんて、渥美清のあの口調で、うさぎとキツネのだまし合いなど語られてごらんなさい。実にこっけい、こっけい。タラコはケラケラ笑っている。
そして、渥美清の口調を真似てみている。

語りの力はなんて大きいのだろう。間合い、テンポ、声のトーン、お話の内容と俳優の個性などが絶妙にかみ合って、物語の世界をぐっと深めている。引き込まれる。
昔、自分が飽きずに繰り返し聴いていたのは、こういうわけだったのか。

これは、ますます捨てられない。代々受け継ぐ家宝に認定。レコードと本と母の心・・・大切に大切に残していきたい。

2009年7 月14日 (火)

タラコの心臓~手術

手術の前日、執刀医の高橋幸宏先生から説明があるということで、面談室に呼ばれました。
タラコの命をゆだねる人物とはどんな人なんだろうかと、どきどきしながら部屋に入りました。
細身で背が高く、やや長髪、鋭い眼差し、薄い唇・・・とてもクールで若々しく、まるでアーティストのような雰囲気。ちょっとびっくりしました。しかし、その説明は、淡々と冷静で落ち着いたもので、貫禄と威厳に満ちていました。
説明を聞きながら、先生の手を見つめていました。
「あぁ・・・この人のこの手がタラコの胸を開き、そして親の私でも見たことも触ったこともないタラコの心臓をつかむんだな・・・」って。
すらりとした指。「この指に、多くの子供たちの心臓を治す、とてつもない技量があるんだな・・」。

夜が明け、朝の6時半から浣腸やら麻酔やら、タラコの激しい抵抗のなかでも着々と準備は進められました。
刻一刻とその時は近づき、部屋にストレッチャーの迎えがきました。麻酔でぐらんぐらん揺れながらも「お母さんがいい」というので、私がだっこして、ストレッチャーにうつしたとたん、すごいスピードで看護婦さんは歩き出し、あっという間に立ち入り禁止の扉の向こうへタラコを連れて行ってしまいました。あのスピードは、きっと親と子の動揺を断ち切るためなんだろうな、と。

2階のICU前のラウンジで待機です。
私の父と母も来ました。おじいちゃんはにぎやかな性格なので、こういう重い空気に堪えられず余計にしゃべろうとする悪い癖があります。
しかし、夫が「おじいちゃん、無理してしゃべらなくていいから」といさめたので、張り詰めた静かな空間にもどりました。
祈りました。とにかく祈りました。頑張れ、頑張れ。私の体から発することができるパワーは全て送りきるように、力を込め続けました。
そして、首からかけたハートのペンダントをぎゅっと握りました。
このペンダントは、以前、タラコが幼稚園で粘土とビーズで作ってきたもので、特にかまうこともなくおもちゃ箱に入ったままのものだったのに、なぜか、入院する朝、タラコが「これ持っていく」と言い出したのです。
突然どうしたの?と思ったのですが、その時、私にはこのペンダントがタラコの元気な心臓のように見えたのです。そして「手術のお守りにしよう」と思い、持っていくことに賛成しました。

長かったような、短かったような・・・1時間半がすぎたころ、扉が開きました。
手術は無事終わりました。
術後の管理のため、明日朝までタラコはICUに入ったままです。
ホッとするより、やはり明朝9時にタラコに会うまでは安心できない気持ちでした。
しかし、とにかく、ハートのお守りをぐっと自分の胸に強く押し当てて、「よく頑張った。ありがとうございます」と心のなかで大きく大きく叫びました。

2009年6 月21日 (日)

タラコの心臓~入院前夜

随分と報告が遅くなりました。

タラコの手術は無事終わりました。4ヶ月たち、すごく元気になりました。胸の傷周辺の痛みも最近ようやく消えたようで、体操もガンガンにやっています。

10月のカテーテル検査に始まり、怒涛の秋冬でした。この数ヶ月で経験したことは、あまりに重くて、これまでに何度も書こうとしましたが書けませんでした。
ですが、少しずつ、記録に残すことにします。

11月の検査で手術を決めてから、ちゃんと眠れた日はなかったように思います。暗闇の天井から不安が押し寄せてくるのです。
風邪を引かせてはいけないと、布団をはいでいないかばかり気になって、神経が冴えてしまうのです。
年末は年賀状を書く気力も起きず、大掃除をする気にもならず、だるい体を引きずって、最低限の家事と、以前から引き受けていた書き物の仕事をやるのが精一杯。

そしてとうとう入院の前日、お風呂で湯船にいっしょにつかりながら思いました。あぁ・・・傷のないつるりんとしたこの胸で、うちのお風呂に入るのは今日が最後なんだな・・・って。
そんなことはタラコは知らず、大好きな「プリキュア」(幼い女の子に絶大な人気のアニメヒーロー)のポーズをとって大はしゃぎ。
私は笑いながら、でもずっとタラコの胸を見ていました。お湯をかけるふりして、なでました。あと数日後、この胸にメスが刺さることを思うと涙が溢れてきて、お湯をすくっては顔を洗いました。
そうだ、つるりんとしたきれいな胸の姿の写真をとろう、と思い立ち、風呂から居間の夫に呼びかけてみたら、面倒臭そうな返事・・・。私の気持ちなどわかるまい。それ以上頼むのをやめました。
「プリキュアのポーズがかわいいから撮らせて!」と言ったら、いつもは写真嫌いで逃げ回るタラコが、機嫌よく、たくさん撮らせてくれました。
デジカメって本当に便利。フィルムカメラじゃ、やっぱり写真屋さんに現像を出しにくいし。

そして、タラコに「明日から入院するけど、お母さんも一緒だから平気だよ」と言い聞かせました。
「注射するときはお母さんぜったい部屋から出て行かないでね。お母さんがいっしょならがんばれるって、わたし、先生に言うから」。

・・・・10月の検査入院のとき、点滴の針を刺すために処置室に連れて行かれ、母親は部屋の外で待つようにと戸を閉められました。そのときのタラコの抵抗は凄まじかった・・・。
「お母さん!お母さん!いやだーっ。お母さんがいなきゃ注射しないーーーーー!お母さんを出さないでーーー!お母さんがいっしょなら私がんばるってお約束するからーーーーー!!!」と絶叫がとどろき続けました。
先生に激しく抵抗しているらしく、暴れている音が聞こえてくるのです。私は涙がこらえられませんでした。自分はこれから何をされるんだろう・・という不安と恐怖で、ただの注射すら受け入れられないその心が痛くて痛くて。
結局、特別に私は部屋の中に呼ばれました。
顔が真っ赤っかに泣き腫れて汗まみれのタラコと、額から汗が噴出して根負けした若い男の先生と看護婦さん。
このことが、よほどのトラウマになり、退院してから、より甘えが強くなり、私のそばを離れなくなりました・・・・。

不安でした。注射1本にあれだけ恐怖を感じているタラコが、手術の前などどうなるんだろうか・・・と。神経が高ぶって、麻酔が効かなかったら・・・。
でも「だいじょうぶ。だいじょうぶ。先生にお願いして、いっしょにいていいよ、というところはお母さん絶対一緒にいるからね。」
とにかく励ますしか、他にできることがないのです。
他の話題に切り替えて、風呂からあがり、無事に寝かすことができました。
そして私は、入院の荷物の確認、書き物の仕事をできる限りまで、そして特に急ぎでもない片付け・・・。
その晩、私は、窓の外がほの明るくなるまで、何だか布団に入れませんでした。
暗闇が怖かったのかもしれません。

2008年12 月24日 (水)

タラコの心臓~検査の結果

気がつけば、今年ももうすぐ終わり・・・。報告が遅くなりましたが、秋にタラコの心臓の検査入院が終わりました。予定通り10月に入院したものの、入院後急激に風邪で体調を崩したため、検査直前で中止の判断。11月に再入院して検査を終えました。

結果は、要手術と出ました。

血の流れは「全身から→右心房→右心室→肺→左心房→左心室→全身へ」です。心室中隔欠損の場合、肺できれいにされた血が左心房→左心室と戻ってきたところで、左心室の穴から右心室へ漏れてしまう。全身へ送り出される血が減り、漏れた血と全身から帰ってきた血が合流して心臓と肺の中を循環するのです。タラコの場合、全身へ送り出される血の量が1に対して、心臓と肺の中を循環している血の量が2.5倍を検査でわかりました。

これを「肺体血流量2.5」といいます。手術基準として2倍以上だと要手術というのが一般的だというので、タラコの場合、基準を完全に超えていたのです。つまり心臓と肺の仕事量が多いわけです。この状態であると、小学生になるころには周りと体格差、体力差がハッキリしてきて、成人するころには階段を上るのがキツいというレベルだということでした。

これまで、エコーなどで見てきたところ、肺体血流量が2倍までいかない微妙なラインと予想されていたので、この結果を聞かされたとき、涙がボロボロボロッと押しとどめる間もなく溢れました。手術をしなくてはならない、という現実にというより、そんな大変な負荷を背負わせていたのか、ということがショックでした。

主治医がいろいろ説明を続ける・・・それを聞いてはいたけれど、頭の中では、夏になると一日中風呂上りみたいに汗びっしょりのタラコ、幼稚園の帰りに疲れた疲れたと泣いて道路に座り込むタラコ、病気とは思えないほど公園で走り回るタラコ、いろんなタラコの姿がぐるぐるぐるぐる駆け巡って。2.5という数値と重なるタラコと重ならないタラコが浮かぶ矛盾。しかし、迷う余地なく手術しなくてはならないと決まった以上、早く治してやりたい、という気持ちも決まっていました。

来年2月に榊原記念病院で手術を受けることになりました。主治医が榊原記念病院あてに書いてくれた紹介状に、今回のカテーテル検査の結果を記録したCD-ROMが同封されていました。榊原記念病院で先日受診した際、そのCD-ROMの画像が先生の机上のパソコンに映し出されていました。タラコの心臓が一生懸命動いている映像です。もぎゅもぎゅと収縮を繰り返しています。それを見たタラコが先生に「これな~に?タコ?タコが踊っているの?」と言って、タコの真似をして笑われていました。

おもしろい子です。無邪気な子です。明るい子です。力尽きるまで遊びたい子です。全く人見知りしないようでありながら、実はシャイな子です。威張って強がるくせに案外怖がりな子です。おしゃべりな子です。ふざけるのが大好きな子です。負けず嫌いな子です。いろんな輝きをまだまだ秘めた子です。

神様、どうかお願いします。無事に手術を終えさせてください。

2008年9 月18日 (木)

最期の蝉

昼間の暑さもだいぶ和らいできたので、久しぶりに光が丘公園に遊びに行った
行く夏を惜しむように蝉が声をふりしぼっていた

ふと地面に目を落とすと、穴がいくつも開いていた
何年も地中で眠っていた蝉がこの穴から出てきて木に登り、脱皮をして鳴いているというわけか
・・・などと、思っていたら、
顔にバチン!と何かが当たった

思わず手で振り払ったら、1匹の蝉が落ちていた
タラコが「蝉さんだ!」と近寄った

もう最期が近いのだろう
羽をジジッ、ジジッとならし震えているみたい
やがて、這いつくばうように私の足に向かって歩き出した

その歩みはジリジリと引きずるようなのに
一点を目指して猛進するような気迫に満ちていた
小さくて今にも死にそうな虫にすぎないのに
怖くなって、思わず逃げた

すると蝉はしばし立ち止まり、ゆっくりと方向を変え、電灯の鉄柱に向かって進みだした
その鉄柱まで距離は、大人の歩幅で2歩ほど

タラコが「おい、どこにいくの?」と蝉に聞いている
「もしかして、蝉さん、もう一度木に登りたいんじゃないかな」と答えた
タラコが「がんばれ、がんばれ」と蝉の歩みを応援する
10分はかかったろう
息も絶え絶えなのか、休み休み、蝉は鉄柱にたどり着いた
そして、やっぱり登り始めた!

老いた蝉には、鉄柱と本物の木の区別もつかなかったのかもしれない
本当の木もすぐ隣にあるというのに

足がぶるぶる震えている
鉄柱の根元は泥で汚れてざらざらしていた
その凹凸に何とか足を1本、さらに何とかもう1本掛けた

這い上がる 這い上がる
もう一度、木の上で鳴きたいんだ
もう一度、木の上で鳴きたいんだ
そう叫んでいるみたいだ
すさまじいエネルギーを放っている

グイッ・・・ グイッ・・・ グイッ・・・ と登って、ようやく後ろ足が地面から離れた
地面からわずか5センチくらいであるけど
蝉は鉄柱に登った!
タラコと私は、思わず拍手した

と、その瞬間、パサッと落ちた
仰向けになって、動かない・・・動かない・・・

「力尽きたんだね。天国へ逝ったんだよ。さあ、手を合わせて、蝉さんにお礼を言おう」
「蝉さん、暑い夏の間、お疲れ様でした。ゆっくり眠ってください・・・」
私が言った後を、タラコが真似して繰り返したそのとき
突然、蝉がバサバサバサバサバサッと足を激しく動かし、もがき出したのだ!
タラコも私もびっくりして
「蝉さんにタラちゃんの声が聞こえたんだよ!もう一回起きたいのかも!」と
葉っぱでそっと蝉を起こしてみた

すると、再び蝉は鉄柱に向かって登り始めた!
「すごい!すごいよ!蝉さん!」タラコが懸命に声を掛けた
でも、やはり・・・2,3歩掛けてパサッと落ちた

もう一度、葉っぱで起こしてやる気にはなれなかった
このまま自然に死なせてあげたい
もう十分がんばったよ。すごい力を見せてもらったよ。ありがとう。ありがとう。

「このままそっとしておいてあげよう」
うなづくタラコと公園を後にした

自転車の後ろの席からタラコが言った
「ねえ・・・私、涙こぼれそうになっちゃった・・・」
「そうだね・・・」とだけ答えて
ただただ前を向いて、黙ってペダルをこぎ続けた

2008年8 月21日 (木)

タラコの心臓 ~ひとつの決心

10月、タラコの心臓の精密検査をすることになった。

4歳をすぎても、穴の状態に進展が見られないので、そろそろ検査して手術の要不要を判断してもいい頃ではある・・・と主治医に言われていた。

春の検診で「この次の検診までに、お父さんとも話してきてください」と言われ、その2ヶ月間はどうしたらいいのか考えない日はなかった。
とにかく、タラコが幼稚園に入って、周りの子と比べてどうかをまずは見てみよう・・・と考え続けた。

タラコが幼稚園から帰るときに、毎日のように泣いたりグズったり怒ったりするのは何故か・・・母親の顔をみて、精一杯頑張っている緊張が切れて感情があふれるのせいなのか、帰ってきてへたり込む姿を見ると肉体的ハンディでどうしようもなく疲れるのか。暑くなってくると人一倍汗まみれなのはやはり心臓のせいなのか・・・・などなど、いろんな思いに日々、気持ちの行き場がなかった。

昨年も感じたことだが、やはりタラコの汗のかき方はやっぱり半端じゃない。さほど暑くもないのに、寝ているとき頭中に玉のような汗をかく。拭いても拭いても噴き出している。夜中も気がつくとガーゼで拭いてやる。そのたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
冷房がガンガンに効いた部屋でも額に汗かいて頬をつたって落ちてくることもある。ただ汗をかいているだけなのに、スーパーでも「あら、プールに行ってきたの?」と声を掛けられるほど、髪から滴る。

こんな状況を見ると、これだけ汗をかくって肉体的に相当負担だろうと思わざるを得ない。自分で考えてみても、滴るほど汗をかくなんて相当な運動量のときだもの。

自然に穴がふさがるかもしれない・・・・ほんのわずかな可能性にかけて、これだけの負担をさせていいのだろうか、と思うようになった。こんなにお転婆で活発な子だけに、思うだけ動ける肉体にしてやることのほうがいいのではないか。

カテーテル検査を受けることにした。カテーテル検査を受けるということは、「とりあえずやるだけ」ではない。検査結果次第では手術へコマを進める、つまり「検査の先」への覚悟がなければ受けられない。その覚悟をした。

検査入院の日程が決まり、タラコに「入院するよ」と説明した。「やだ!やだ!こわい!!」と泣かれた。「いつもより時間をかけて調べるだけだから」と言い、どんなことをやるかは説明しなかった。「わかった。わたしがんばる」と言うので、涙がでてきた。

今日も知人に「秋に検査入院することになって・・」と話したら、タラコが横から「わたし、ほんとうは入院いやなんだけどね、入院しなきゃいけないの」。

涙がこみ上げてきた。でも私が涙をみせてはならない。

タラコの心をしっかり守ってやらなきゃならない秋になる。

2008年8 月10日 (日)

政府専用機を見送りながら ~今年、広島にて

7月末から、夫の両親が住む広島・呉へ帰省した。
タラコが生まれて初めての広島行き。実は、父はタラコ4歳にして初対面なのだ。
人見知りしないタラコ、初めっから、まるでもう何度も会っているかのようななつっこさで、1週間したらすっかり「広島の子」となっていた。

私は5年ぶりの広島だ。8月のこの時期、平和公園は6日の平和式典に向けて準備が進められている。5年前に訪れたのもちょうどこの時期だった。
今回も平和公園と原爆資料館に行きたかったが、呉から広島まで足を延ばす余裕はなかった。
町の掲示板には公民館での「原爆と戦争展」のチラシ。図書館の入り口近くに並べられた戦争や原爆関連の本。静かで穏やかな田舎町だけど、たしかにここはヒロシマなんだな、と思う。

私たちが東京へ帰る8月6日は広島原爆の日。朝、テレビで式典を見た。
毎年、毅然と平和宣言を発する秋葉市長、懸命に平和を訴える子ども代表が印象的だ。それに比べ、去年までの小泉首相の態度は原稿棒読みで耐え難いものがあった。今年の福田首相は何度も原稿から顔を上げようとしているあたり、少しほっとした。

式典を見終わって、広島空港へ向かった。早く着いたので、離着陸が見えるレストランでお茶をしていた。
母が「あら、あれはどこの会社の飛行機かしら?」というので外へ目をやると、垂直尾翼に日の丸。
「あ、あれは政府専用機ですよ。福田さんたちを乗せてもう東京へ帰るんですね」・・・と言い終わらないうちに、空の彼方へ小さくなっていった。

元安川の橋の上から平和公園を見ると、整然と整備されていて、かつて火の海となり、焼け尽くされた人々のどよめきがあったのか信じられない気になる。
しかし、左を見ると原爆ドームがそれを証言しており、かなりの高齢者の方々が酷暑にも関わらずつぎつぎに訪れ祈りを捧げている姿を見ると、たしかにあったことなのだ、と思い知る。

4日間で広島、北京、長崎・・・福田首相も激務だ。問題山積の国家。やるべきことがありすぎて、式典が終わったらサッサと帰るのも無理もない。
だけど、飛行機が飛び立ったこの時もまだ平和公園は、あの日に思いを馳せる人々、忘れまいとする人々であふれているだろう。

どうか、その人たちの苦しみや願いは置き去りにしないでほしい。全ての仕事は平和のためにあるのだから。

2008年7 月31日 (木)

「私」ってなぜ?

タラコ4歳。自分のことを「私」と呼ぶ。
「私、○○したよ」「それ、私の!」などというように。
いつからそうだったかハッキリ覚えていないけれど、少なくとも3歳になったときには、もう「私」だった。

当たり前のように聞き入れていたけど、ある時、他の子のお母さんから「タラちゃんて自分のこと“私”って言うんだね!」と驚かれて、珍しいことに気づいた。
そういえば確かに、他の子は自分のことを名前で呼んでいるなぁ、ウチは自分のことあんまり「タラコね・・・」とか「タラちゃんね・・・」とか言わないなぁ、と。

その後も何人かのお母さんからこのことを指摘された。
もちろん自分のことを「タラコ」と呼ぶこともあるけど、「ちゃん」づけはしないなぁ。まぁ、大抵は「私」だ、やはり。

で、昨日も別のママ友に指摘され「おませさんなんだね」と言われた。それがミョーに引っかかった。
別に気分を害したわけじゃない。ハッとしたのだ。

「私」は「おませさん」だからなのか??? 
そもそも3,4歳の幼児が「私」を使うことは珍しいことなのか?? 
そういえば男の子も自分のことを名前で呼ぶのか??・・・・考えてみると、指摘したママはみんな女の子のママ。そもそも男の子のママであまり親しい人がいないんだけど。

「私」は精神発達的なことなのか、それとも性格的なことなのか、あるいは言語習得過程において「私」という言葉が印象的だったなどという心理的なことなのか・・・・何か学問で解明されていないのだろうか???

・・・・なんて考え始めたら、気になって気になってしょうがない。
私がタラコに対して話すとき、自分のことを「ママは・・・」と言わないで「私は・・・」と言うことが多いのかなぁ。やっぱり赤ん坊のときから自己主張が強かったからかなぁ。
意識し始めると、何が何だかよく分からなくなってきた。

どなたかそのワケをご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください!