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2006年7 月31日 (月)

漂う若者「先がない」;ワーキングプアの実態

  朝日31日朝刊は1面、2面、社会面に渡って過酷な非正規労働者たちの実態を報じた。1面トップの<実質は派遣、簡単にクビ/偽装請負 製造業で横行>は調査報道による特ダネで、非正規労働の若者たちが大量に生み出されるからくりを暴いた。ハイテク業界を中心にメーカーの地方工場では大量の請負会社員が働くが、彼らの実態は派遣会社からの派遣労働者だ。請負を偽装すると労働者派遣法による使用者責任や安全上の義務・責任をメーカーは負わずに済み、クビを切るのも自由自在。2面<好況置き去りの世代/労働コスト圧縮の柱>は「偽装請負」を担う若者たちの生活が固定化していく恐れを指摘している。彼らは20~30代半ばでボーナスや昇給はほとんどなく、給料は正社員の半分以下だ。年収200万円足らずでは結婚もままならない。「おそらくこの人たちは、一生浮かび上がれないまま固定化する」という労働局幹部の言葉が不気味だ。社会面<漂う若者「先がない」>はこうした状況に苦しむ若者たちを描いた。

 <コメント>◎格差社会が若者を蝕む◎
  「格差社会」が昨今のキーワードになっている。小泉政権5年の評価もこのキーワードで測られようとしている。この格差社会を生み出している大きな要因がパートやフリーターなどを含む非正規社員の増大だ。一生ずーっと低賃金で働く構図が定着しようとしている。マスコミの関心もようやくここに集中し始めた。毎日のキャンペーン連載「縦並び社会」をはじめ、最近ではNHKスペシャル「ワーキングプア~働いても働いても豊かになれない~」が話題を呼んだ。ワーキングプアとは働く貧困層を指す。外国の話とばかり思っていた社会の階層化は現実に日本で進んでいる。所得の格差が学力の差に現れてきたとの指摘も多い。朝日社会面<漂う若「先がない」>はまさに現代日本の断面を鮮やかに切り取った見出しではなかろうか。若者の閉塞感、絶望感が多くの教育問題を生み出していることは間違いない。「格差社会」の解消は日本が全力を挙げて取り組むべき課題である。

2006年7 月29日 (土)

「言葉の力」を学習の基本に;文科省が検討開始

 07年度中の改訂が見込まれている次期学習指導要領について文科省は、国語を他教科も含めた学習の基本と位置づけて「論理的な思考力」の向上を軸に教育内容を見直す検討を始めた(朝日29日朝刊3面)。今回の改訂は学力低下を招いたとされる「ゆとり路線」の見直しが最大ポイントだが、文科省は中教審などでのこれまでの審議から、論理的な思考力をつけるため全体として「言語力の育成」を目指すことを検討していくことになった。すでに中教審の教育課程部会が2月、「言葉は確かな学力を作るための基盤で、国語力の育成はすべての教育活動を通じて重視する」との報告書をまとめている。この線に沿って今後の検討が進められることが本決まりとなったもので、文科省幹部は「『話す、聞く、書く、読むの中核には『考える道筋』がある。この道筋に必要な要素を言語の面からとらえて、適切に教える必要がある』と話している。

 <コメント>◎大賛成だ◎
  言葉が「考える力」、場合によっては「学力」の基礎であることは前から自明の理だと思っているが、文教行政がそこに向かって舵を切ることは大賛成だ。思い切ってやってほしい。近年の子どもたちの文字離れを見ていても、このままでは日本の将来は危ういと思わざるを得ない。

 朝日は今年の正月紙面で、<言葉の力>が次期学習指導要領のキーワードだと特報した。中教審の審議、およびそれを睨みながらの文科省の政策検討もその流れの中で来ていることを改めて報道したのが今回の記事だ。既報ではないか、と思う読者もいるだろうが、検討を開始するということは省内の政策的な論議の決着も付いたということを意味しており、プロ的には意味のある報道だ。残念ながら内容が抽象的でこれからどうなるのか分かりにくいが、記事には「高校の国語では、文章理解や論理的な思考・表現を育てる科目を新設する案も出ている」とあり、大きな動きになる可能性もある。

2006年7 月27日 (木)

敬語は難しい;国語世論調査

  文化庁は26日、05年度の「国語に関する世論調査」結果を発表した(各紙27日朝刊)。敬語に対する意識が調査のポイント。結果は文化審議会国語分科会が来年2月までに答申予定の「敬語に関する指針」作りに反映される。

この線に沿って朝日は<「お」つけしますか?>(3面)という洒落た見出しで美化語の「お」の使い方に焦点を当てた。第4の敬語と言われる「お」の付け過ぎは戦後間もなくから指摘されてきたが、調査からは相変わらずの現状が浮き彫りになった。日常生活でよく使う15の言葉について「お」を使うかどうか聞いたところ「お菓子」(73%)、「酒」(56%)、「米」(56%)、皿(55%))などが付ける上位にきた。最下位は「くつした」だが、0.9%の人が付けるという。

読売は<部下に「お疲れさま」今や常識>(対社面)と敬語の言い回しを取り上げた。部下に「お疲れさま」という上司が53%にも上ったという。「ご苦労さま」というより部下に気を使った感じがあるらしい。敬語については68%の人が難しいと感じているが、「必要だから使いたい」「使わざるを得ない」と回答した人が計93%に上った。

<コメント>◎敬語は日本の美風だ◎
  歳を取ると保守的になるのだろうか。昔は全くと言っていいほど関心がなかった「敬語」の大事さが分かるようになった気がする。若い頃は敬語は上下関係を強いるものと映ったが、人間関係の経験を積むほどに敬語はコミュニケーションに人情の機微を持ち込んだ日本語独特の機能と思うようになった。調査が指摘するように敬語や「お」の使い方は性差や年齢など個人差が大きく影響するもので、役所が指針を作る必要はないような気もするが、美しい日本語の機能を皆で守っていくためには現状を把握し、より美しい使い方を研究するための議論、事例作りは意味があるだろう。

2006年7 月25日 (火)

埼教組のホール使用を取り消し;所沢市

 埼玉県所沢市文化振興事業団は24日、埼玉県教職員組合に出していた事業団管理ホールの使用許可を取り消した(毎日25日朝刊第3社会面)。全日本教職員組合が8月17~20日に予定する教育研究全国集会の会場になることが分かったためで、事業団側は「反対団体による混乱で住民に危険が及ぶと予想される」ことを理由にしている。組合側はさいたま地裁に提訴する方針だ。

 <コメント>◎何のために警察がある?◎
 記事からは分からないが、組合側は最初使用目的を別のことにして使用許可を取ったのだろうか。そのあたりの手続き上の問題を別にすれば、集会に反対する勢力が騒ぐから会場を貸さないというのははなはだしく不合理だ。集会が開かれれば右翼の街宣車が街中を走り回り、大音響で軍歌を流す光景が繰り広げられ、市民を巻き込む不測の事故が起きかねない、という理由だと思われるが、それは反対勢力の責任に帰すべき問題だ。県警機動隊を総動員してでもそうした迷惑行為は押さえ込むのが法治国家の基本でなくてはいけないはず。憲法21条が保障する集会の自由が実質的に担保されるかどうかの問題だ。

ひところ、こうした会場を貸さない嫌がらせが相次いだ時期があったが、いまだにそうなのかと驚いた。ちなみに全日本教職員組合は共産党色の強い団体で一般には「全教」と略して呼び、旧社会党色の強い日教組と区別している。両者は1991年に分裂した。日教組も教研集会の会場地は開催直前まで一般に明らかにしないなど変則な事態が今も続いている。

タラコの本棚~その1

会った人なら分かると思うけれど、タラコはあまりおとなしくない。
今は卒業したけれど、おっぱいの飲み方がスゴかった…。寝返りが打てるようになった生後4ヶ月ごろから、乳首をくわえたままグリグリ動く。飲みながら寝返りを打つ。動きが成長するにつれ、それはそれはスゴくなり、飲みながらローリングするわ、立ち上がるわ、最後のほうには私を押し倒して飲んでいた。わたしのおっぱいちゃんはかわいそうなほど伸びきって、さすがに耐え切れず、1歳8ヶ月で卒乳させた。

そんなもんだから、私のひざの上に座っておとなしく本を読むなんてことがまるでできなかった。児童館などで、そうして絵本を読んでいる親子を見ると心底うらやましかった。タラコはいつも私と顔をつきあわせて、私のひざを机に本を置いて読む。

が、1冊の本が私の夢をかなえてくれたのだ!!その本は…
『はっしゃしまーす ブッブー!』(ふゆのいちこ作・絵、ポプラ社、2005年9月刊)
18センチ四方の小さな本。“いっしょにうんてんしゅさんごっこ!”と銘打ってある。
かばさんが運転するバスには背高のキリンさん、ぐずるパンダのあかちゃん、おなかの大きな(妊婦の)ウサギさんがお客さん。それぞれ起こる“ちょいハプニング”。かばさんが運転席の素敵なボタンを押して解決してくれる……っていうお話。画面いっぱいに出てくるハンドルの絵で、読み手が運転するかばさんの気分になれる・・・という仕掛けが楽しいの!

この本は、とあるところに「ご自由にお持ちください」的に置いてあったたくさんの本の中から選んで、我が家にやってきた。

この本を最初渡したときも、やっぱり向かい合わせに座って読み始めたのだけど、途中で「ここにお座りして読む?」ってひざをたたいたら、ストン!とお尻を落としてくれたのだ!!

うれしかった~。本当にうれしかった~。汗臭い髪のにおいやら、体の重みやあったかさ。こんなものを感じながら本を読んであげたかったのよ・・・むぎゅーって抱え込むように、ほっぺたすりすりしながら、やたら密着して初の感動を味わいました。タラコは私のそんな感動はよそに本の楽しさに夢中だったようだけど。ようやくそれが2歳の春のことでした。

以来、私はこの本を持ち出しては、密かにタラコにスキンシップを迫っている。

2006年7 月22日 (土)

防衛秘密

 日比谷のプレスセンター10階大ホールで開かれた額賀福志郎防衛庁長官の昼食記者会見に出た。最初の30分ほどで昼飯を食べ、その後でゲストが40分ほどしゃべり、後4,50分を質疑応答の時間に当てるのがいつものパターン。額賀氏は昨年末の就任以来、米軍再編、イラク駐留陸自撤収、北朝鮮のミサイル発射への対応など話題に事欠かない人物だけにホールは100人ほどの参加者で満員だった。防衛庁長官が花形になるのはいささか問題だが、まさにそういう時代になりつつあるのだろう。

 額賀氏が産経新聞記者を10年ほどやって政界に転じたのは知らなかった。つい最近、イラクからの陸上自衛隊撤収に際しマスコミに対して報道管制(ブラックアウト)とも言える厳しい取材規制を敷いて物議を醸したのでどのような背景の持ち主かと思ってはいたが、元新聞記者だったとは意外だ。彼は信長の北陸撤収、第二次大戦でのガダルカナル撤収などを例に上げ撤収作戦の危険性を強調した。これは取材規制の記事を読んだときにも思ったのだが、イラクの場合はそれでは話がおかしいのじゃないだろうか。イラク派遣は戦地じゃないということで復興支援部隊が派遣されたのではないか。それを「部隊縮小の情報が漏れると攻撃されるから」と、まるで戦場からの部隊引き上げのような理屈で自衛隊の外地での動きを国民の目からシャットアウトするのはとんでもない話だ。

 むかし会計検査院を担当したときのこと。防衛1課、2課という防衛担当の検査官が秘密の壁に悩んでいたのを思い出す。「弾が今何発あるかなどということは利敵行為になるから言えないと言うんだよ。検査院には何も教えないんだ」とこぼしていた。話は誇張されているのだろうが、防衛秘密を振り回す風潮は出始めている。軍のブラックアウトとは今のうちから真剣に対決していかなくてはいけない。

 真意を問うてみようと思ったが、他の質疑を聞いていると額賀氏は小泉首相張りに質問をはぐらかすことが再々で、ブラックアウトを持ち出してもまともな反応はしそうにないのでやめた。このへんが昼食会というやや中途半端な記者会見に臨むも者の緊張感のなさか。反省材料だ。

2006年7 月21日 (金)

学校栽培のジャガイモで食中毒

  東京都江戸区立鎌田小学校で18日、授業の一環として栽培したジャガイモを食べた児童ら77人が食中毒にかかったと20日、都福祉保険局が発表した(読売21日朝刊社会面)。子どもらが収穫したジャガイモを調理員が青い皮付きのままゆで、6年生の児童と先生計132人が食べた。このうち児童75人と教員2人が腹痛や吐き気、のどの痛みを訴えた。同局はジャガイモの皮や芽に含まれる有毒物質のソラニン類が原因と断定した。ソラニンはジャガイモ、トマトなどナス科植物の芽に特に多く含まれる。全国ではソラニン類の食中毒は1988年から昨年までに全国で9件(幼稚園1件、小学校8件)発生している。

 <コメント>◎調理員さんは知っていてほしかった◎
  子どものころ皮付きのままゆでたジャガイモをおいしく食べた記憶がある。芋の種類によって違いがあるのだろうか。ソラニン類とは初耳。校長先生も「安全への配慮が足りなかった」と反省しているが、食べ物のプロであるべき調理員さんは知っていてほしかった。最近は給食も自校調理法式が減って調理員さんのいる学校が少ない。授業で栽培、収穫したものは食べるところまでやって初めて教育的な意味が高まる。調理員さんがいて調理の設備がある同校はせっかく良い環境にあるのに残念だ。しかし、幸いみんな軽症だったから良かった。痛い思いをして気の毒だったが、食べ物の奥深さを身を持って学んだと思いたい。

2006年7 月20日 (木)

日本で進む学力の階層分化;OECD指摘

 勝ち組、負け組は子どもの学力格差にも反映しているーーOECD(経済協力開発機構、本部・パリ)の対日経済審査報告書が言い切っているのには驚いた。本当かなあ。日本でも学力格差は言われ始めているが、ここまで所得格差と関連つけた露骨な言い方はしていない。調べなくてはなるまい。

OECDは先進国の協力組織。日本など30カ国が加盟している。来日中のアンヘル・グリア事務総長が20日、日本記者クラブで会見した。OECDが18ヶ月ごとに出している対日経済審査報告書の発表を兼ねた会見で、報告書を書いたエコノミストのランドル・ジェームス氏も同席した。会見予告に日本で進む所得格差問題にも触れるであろうとあったのに興味を引かれたて出席したが、教育問題にも言及するとは思わなかった。

 会場で配られた報告書のレジメによると、日本の相対的貧困率は今やOECD諸国で最も高い部類に属するという。つまり金持ちと貧乏人の差が広がっているということだろう。主な原因は労働市場における二極化の拡大。つまり10年前には全労働者の19%だった非正社員(非正規労働者)の割合が30%以上に増加。またパートタイム労働者の時間当たり賃金は平均してフルタイム労働者の40%に過ぎない状態だ。これらは所得格差や貧困の固定につながっていく。2000年の日本児童の貧困率はOECDの平均を大きく上回る14%に上昇した。

ここから報告書は一足飛びに学力格差論を展開する。「民間部門の負担する教育費の割合が比較的高いことを考慮すれば、貧困が将来世代に引き継がれることを防ぐため、低所得世帯の子どもの質の高い教育へのアクセス権を確保することが不可欠である」と日本社会に警告を発するのだ。つまり日本は塾が盛んだが、塾に行けなくて満足な高等教育を受ける機会を逃す子をなくせ、と言っているのだ。さらに問題なのが次の指摘。「PISA調査において明らかになった日本における学力の階層分化の進行に対処すべきである」。

そうか、PISAはOECDが3年に1回行っている学習到達度調査のことだった。2003年の結果が発表されて「日本の子どもたちの学力が世界のトップクラスでなくなった」と大きな問題になった。もっか進んでいるゆとり教育からの方向転換もPISAなど国際学力調査の結果に追われてのことだった。しかし、PISAの結果が学力格差問題を提示しているという指摘はこれまで大きな声になっていない。事実なら国際ランキングなど比ではない大問題だ。報告書がどのようなバックデータを持って物を言っているのか調査してみたい。

2006年7 月19日 (水)

初動捜査誤らせた2つの先入観;彩香ちゃん殺害

   秋田県藤里町の小1、米山豪憲君(7)殺害事件の容疑者、畠山鈴香(33)が自分の娘、彩香ちゃん(9)を橋の上から突き落として殺した疑いで再逮捕されたことで毎日新聞は元警視庁捜査1課長、田宮栄一さん(73)にインタビューし<二つの「先入観」指摘>(19日朝刊3面)をまとめた。全国の警察本部にある捜査1課は殺人や強盗などの凶悪事件を扱うセクション。捜査現場に精通した警察官が就くポストだ。

田宮さんは「水死体は、自分で転落した場合でも突き落とされた場合でも、死体の所見は同じ。事故なのか事件なのかは、周辺の捜査をし尽くして判断することが重要だ」とした上で秋田県警に「事故死」と判断させた二つの「先入観」を指摘した。第1点は「こんなのどかな所で子供が巻き込まれる大事件が起きるのか」という先入観。第2は「娘の捜索願を出した母親が事件に関与することがあるのか」という先入観と指摘する。

誤った先入観を覆すのは、経験に裏打ちされた刑事のカン。田宮さんは、彩香ちゃんが足を滑らせたとされた現場を最初に見た時「4月の寒空の下、女児が一人でこんな所に遊びに来るだろうか」と事故死に違和感を覚えたという。

 <コメント>
  ◎ここまで来たか、母性の喪失◎
  元警視庁1課長の指摘する2つめの先入観を補足すれば「これほどひどい母はいないだろうと誰でも思うに違いない」ということだ。実の娘を殺してここまで平然としらを切れまい、と警察が思っても仕方がなかった面は確かにある。だからといって母娘の目撃証言を初動に生かせなかったことなど詰めを欠いた捜査の責任は消えないが、昨今相次ぐ子どもの虐待事件の中でも、母性の喪失、ここに極わまれり、と言うしかない事件だった。家庭の、そして社会の根本が崩れていく感がある。生育歴を含め畠山容疑者の徹底的な人間解析を期待したい。

2006年7 月17日 (月)

背水の学校別成績公表:足立区学力テスト

  東京都実施の学力テスト(03、04年度)成績が小、中学校とも2年連続で23区の最下位だった足立区は危機感を募らせ、04年度から区独自の学力テスト(学習到達度調査)を実施、その学校別成績順位を区のホームページで公表している(毎日17日朝刊教育面)。同区は学力向上対策として①放課後の補習をサポートする大学生ボランティア導入②テスト結果に応じた指導の改善計画の作成、などを行っており「成績の公表は学校の序列化を目指すものではない。最終的に公教育の底上げを図りたい」と説明している。これに対して地元の保護者らの反応は概して冷ややか。「いまさら遅い。大学進学希望者の親は区の公教育に期待せず、自分で区外の良い学校を探して通学させている」「子どもが通う学校は学力テストの順位だけを気にして生徒への個別指導を行っていない」などの声が出ている。(11月4日付に続報「学テ成績で予算配分;足立区教委」)

 <コメント>
 ◎可哀そうだよ、足立の子ら◎
  学力がなぜ23区の最下位なのか、その構造的な原因を探る努力はどこまでされているのだろうか。「先生のやる気が足りない」「親の関心が低すぎる」というので尻をたたくために学校別成績公表に踏み切ったとしたら単純すぎる。あるいは、学力問題とは煎じ詰めれば、ホンネで語ればこういうこと(順位付け)というわけか。それにしてもドンジリの中でさらに順位を付けてどうなるのかと言ったら失礼か?

「赤裸々な成績公表に記者は戸惑いを覚えた。『ここまでする必要があるのだろうか』」と記事は記者の主観を投影させているが、ほっとするくだりだ。正常な受け止め方だと思う。しかし、それ以上に足立区にはのっぴきならない危機感があるのではないか。私立がすぐそばにある東京の公立学校は生き残りの瀬戸際にあるのが現実だ。

記事には書かれていないが、同区は学校選択制度を導入している。成績順が親の学校選びにどう影響しているか、区教委はきちんと調べて評価を下し、正直に公表してほしい。それにしても何だか足立の子どもたちが可哀そうに思える。成績下位の学校に通う子らは本当に母校を愛せるのだろうか。「人間はペーパーテストの成績じゃないよ」と教えているとしても、こうあからさまでは子どもたちも額面通りには受取れまい。