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2007年4 月25日 (水)

シリーズ・書写を考える<8>

                        第1部「書写教育の今日的意義を問う」
                                                 ~大平恵理氏インタビュー~
 その3<子どもの変容>
  教育で最も大事なことは、教育の結果子どもがどう変わるか、である。昨今の教育の混迷は意図するように子どもが変容しないところに原因があると言って過言ではないだろう。このシリーズは、書写教育が子どもの良き変容に大きな効果を発揮することから、その背景を探ろうと企画したとも言える。書写教育の現場で多くの子どもたちに文字通り手を取って教えてきた日本書写能力検定委員会(書写検)首席副会長、大平恵理氏に体験的変容論を語ってもらった。(文中敬称略)

        上手い、下手を左右する文字感覚を磨こう
 ――まず技術面からお聞きします。大平理論では「どのような子も必ず書写はうまくなる」としていますが、我が身を振り返り信じられません。大平理論の詳細を教えていただけますか?
 大平 書写の場合、字形の整え方などを理論的に説明することができます。例えば、「横画は少し右上がりに平行に書くと好い」などです。書写の学習過程は、まず字形の整え方などを理論的に理解し覚える段階、次に実際に書いて上手く書けるようになる段階とあります。そして、覚えることと書けるようになることは連鎖していきます。具体的には、形の整え方を覚え実際に書いてみて、繰り返し書いて上手くいく、やっぱり上手く書けない、というような具合になるわけです。

 ――手筋は遺伝だということにはならいのですか。
 大平 字形の整え方を覚えるということは他の学習と同じで、どのくらい覚えたかということを成果として問うことができます。しかし、実際に上手く書くということは他の学習と違って、一人一人が持つ、それまでに知らず知らずに養われた文字感覚に、大きく左右されるという性質があります。そのため、「字を上手く書こう、学ぼう」と意識した時には、書写学習の過程が覚えることと上手に書けることが連鎖していることもあって、手すじや親からの遺伝のようなもともと備わったものにより、あたかも上達が決まっているように感じてしまうのではないでしょうか。
  文字には上手い子(人)、そうでない子(人)があるのではなく、文字感覚を養いながら、理論的に字形の整え方などをきちんと学べば、必ず書写は上手くなると考えています。一般に言われる上手い子(人)とそうでない子(人)の差は、単にそれまで養われてきた文字感覚の差であり、書写学習にあたって文字感覚を養う時間がかかるか、かからないかの差だけなのです。

  ――上手い,下手は文字感覚の差だと言われましたが、文字感覚とは何を指していますか。
  大平 書写書道作品の文字や街中の看板文字でも、ノートに書いた文字でも「この字好きだな」と感じたり「素晴らしい」と感動したり、ちょっと不快に思ったり、落ち着かない気持ちになったり、と文字に対して感覚的に感じ取るものがあります。また、逆に何も感じず、文字を意識することもなく過ごしているケースもあるかもしれません。
 触れた文字に対して受け取る感覚が文字感覚であり、感覚は、文字を意識することから養われ始め、そこからの学習経験により、徐々に磨かれていきます。敢えて順番をつけるなら、まず第1段は、縦画の方向をしっかりさせることです。縦画が倒れると文字全体も傾きます。第2段としては何本もある横画を等間隔に、平行に書くことです。すると文字は整然とします。この2点が一番大きく文字感覚を養う柱になります。第3には、バランスです。人間もそうですが、狭い平均台に乗るとしましょう。大体の皆さんが両手を広げてバランスをとると思います。この時の人の姿と同じように、多くの文字が左右一箇所だけ幅をとって左右のバランスをとります。
ここまでは、縦横の方向ですが、次には斜めの点画に対するものがあります。横画、縦画はほとんどが一定の方向を保ちますが、斜めの画はあらゆる角度があるのでとても難しいです。書き出しではわずか0.1mmぐらいの差でも、行き着く先の終筆は大きく開いてしまうからです。更には横画、縦画、斜めの画の接し方、終筆のとめ・はね・はらいの書き方等があります。特に要所を理解しやすくするのが毛筆学習です。

  ――――途中ですが、形を整えるいくつかの要素を備えた文字を良しとする感覚が優れている、というのはどうしてしょうか?

 大平 そこまで及ぶと、とても難しいことになりますが、理屈ぬきに多くの人が「いい字だなぁ」と直感的に感じることが大事なのだと思います。これらの事に気をつけて文字を見たり、書いたりするうちに、芸術的感性による文字感覚は別として、一般的に言う文字感覚というものは磨かれていきます。日常の一回一回の小さな経験が文字感覚を養っていくのです。ただ漠然と文字に触れるのでなく、書写など改まって学ぶ機会を持ち、よい文字の要所をつかんで文字に触れると、より精度の高い文字感覚が養われていくと言えると思います。文字感覚も遺伝のように思えてしまうのは、目に見えない本人の意識に左右されているからではないでしょうか。
 
 話は最初から書写の技術的側面に深く入ってしまったが、次回は書写教育の精神的側面にも触れていきたい。
                      ×             ×
大平恵理氏 1965年生まれ、東京都出身。小学2年生から書写を始め、吉田宏氏(書写検会長)に師事、数々の全国大会でグランプリを受賞。大東文化大学に進み書写書道を学ぶ。2005年から書写検首席副会長に就任、お手本、教材作成、講習会での指導を担当。著書に、字を書く楽しみ再発見!をキャッチフレーズにした「えんぴつ書き練習帳」(金園社)などがある。元来は左利きで、幼少の頃はよく鏡文字を書いていたなどのエピソードを残す。2児の母。座右の銘 「誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下、格物、致知」(「大学」八条目)
                                    ×            ×
  日本の子どもたちの学力を高めるためには国語力をつけなくてはいけないという考えが強まっている。今年度中にもまとまる国の次期学習指導要領では国語力の涵養が柱になる見通しだ。国語力の中心は「言葉」への理解度とそれを使う力であり、言い換えれば「言葉の力」の強化が求められている。教育タイムズではこの観点から言語能力の基盤と言える「手書き」文字に注目、それを学ぶ書写教育の今日的意義を探る「シリーズ・書写を考える」を連載することにした。第1部は書写教育の全般について大平恵理氏へのインタビューを中心に構成、おおむね毎週1回、週はじめに更新する。

2007年4 月18日 (水)

シリーズ・書写を考える<7>

           第1部「書写教育の今日的意義を問う」
                              ~大平恵理氏インタビュー~

その2<書写と書道>
  書写と書道はどう違うのか? 誰もが持つもっともな疑問だろう。我が国屈指の書写団体である日本書写能力検定委員会(書写検、本部・東京都青梅市)の大平恵理・首席副会長はその違いを明確にしながらも文字文化を追求するうえで両者は密接に関連するとの考えを示した。書道と対比しながら書写の教育的、文化的意味合いを考えてみたい。

――書写は正式な呼び方ですか。書道との違いはありますか。
大平 「書写」とは文科省が定める授業の大綱的な基準の学習指導要領で小中学校国語科の言語事項として取り上げられている公式な呼び方です。文字を「正しく整えて読みやすく書く」ことが目的です。硬筆と毛筆を関連付けて学習が行われます。中学生では、これに「速く書く」ことも加わります。一方、「書道」は芸術科目として学校では高等学校以上の科目として位置づけられています。

――この2月、民放が「日中書道対決」という番組を流しました。書道対決ということですが日本側代表は書写検生徒の高校3年、藤本梨絵さんでしたね。大平先生は日中のどちらが上手だと思いましたか。
(番組は4チャンネルが制作・放映した。その中国ロケの模様を報じた<書写シリーズ・序章「安徽省師弟旅」>にも1000件ものアクセスが殺到するなど大きな反響を呼び「書写というものを初めて認識した」などの声も寄せられた)。 

大平 どちらが上手とは言い難いと思っています。藤本さんは書写の基礎力の上に表現しており、一方中国の学生さんは古典学習の基礎力の上に表現しており、双方異なる学習観点の上に書かれた作品でした。専門性としては古典学習も重要視すべきと考える一方、広く一般には日常の硬筆にも関連付けて、書写学習を奨励したほうがいいとも考えています。

――中国の日常生活は簡体字の硬筆で行われていると聞いています。日本の場合も日常生活ではそれほど毛筆と縁がありませんが、毛筆書写の現代的意義はどこにあると考えますか。
大平 大きく2つの意義を考えています。1つ目は、日本語の文字は毛筆文字で出来上がったため、とめ、はね、はらいの書き方、点画の接し方を明確に学べるということです。2つ目は、日本の文字の成り立ちから言って、文字を文化として深く親しむには毛筆文字が最適と考えます。

――毛筆書写について教育的側面からもっとご説明いただけますか?
 大平 筆に墨を含ませ、筆から紙へと墨が伝わり、文字を描き出します。含ませた量によって墨の紙へ伝わるスピードが変わり、筆を運ぶ速さも加減したりします。折り返し、払い、書く点画に合わせて呼吸も整えます。書かれた文字からは息遣いさえ感じるものです。毛筆で文字を書くことは、硬筆以上に集中し、落ち着いて物事に取り組む姿勢を養うことができると感じています。

 ――書写と異なり、いわゆる芸術書道は美を追い求める余り文字から離れすぎて、早い話ほとんど字形というものと無関係とさえ言えるケースがあるように思います。文字文化という点ではその発展に関連しないのではないかとさえ思わないでもないのですがどう思われますか?
 大平 大いに関連すると思います。創造美を追求する芸術書道により、文字に親しむ視点がとても情操豊かなものになると思います。更には、その視点に止まらず、(書写のように)文字を正しく整えて書くことや、現代に使用する硬筆との関連まで視野に入れた文字文化を追求する姿勢が大切だと考えます。
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Ohira_2 大平恵理氏 1965年生まれ、東京都出身。小学2年生から書写を始め、吉田宏氏(書写検会長)に師事、数々の全国大会でグランプリを受賞。大東文化大学に進み書写書道を学ぶ。2005年から書写検首席副会長に就任、お手本、教材作成、講習会での指導を担当。著書に、字を書く楽しみ再発見!をキャッチフレーズにした「えんぴつ書き練習帳」(金園社)などがある。元来は左利きで、幼少の頃はよく鏡文字を書いていたなどのエピソードを残す。2児の母。座右の銘 「誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下、格物、致知」(「大学」八条目)

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  日本の子どもたちの学力を高めるためには国語力をつけなくてはいけないという考えが強まっている。今年度中にもまとまる国の次期学習指導要領では国語力の涵養が柱になる見通しだ。国語力の中心は「言葉」への理解度とそれを使う力であり、言い換えれば「言葉の力」の強化が求められている。教育タイムズではこの観点から言語能力の基盤と言える「手書き」文字に注目、それを学ぶ書写教育の今日的意義を探る「シリーズ・書写を考える」を連載することにした。第1部は書写教育の全般について大平恵理氏へのインタビューを中心に構成、おおむね毎週1回、月曜日に更新する。

2007年4 月17日 (火)

100円ショップに思う・・・

今さら言うまでもないけれど、最近の100円ショップってすごい。

「はさみ」一つとっても何種類もあって、品揃えに驚く。

100円ショップの充実と反比例して、地元スーパーの文具売り場が何ともさびしくなってしまった。最低限のものか、キャラクター商品しか置いていない。そりゃそうだ、文具売り場は3階、100円ショップは4階。エスカレーターひとつだもんね。

そして、町から文具店もなくなってしまった(跡継ぎがいなかったからかもしれないけど)。

だから、文具が必要になると100円ショップに行かざるを得ない。

しかし、種類は豊富でも、どうもすんなり選べない。便箋、封筒、ノート、カッター・・・・デザインが今ひとつというか、つくりが安っぽいというか(仕方ないけど)。

初期の100円ショップに比べたら、品質もデザインもそりゃ随分進歩している。けれど、あまり選ぶ楽しさを感じられない。100円とはいっても、何だか引っ掛かりがあって結局買わなかったりする。

だからと言って、それなりにこだわりはあるけど、わたしゃ特別、審美眼に優れた人間ではない。

迷い疲れて何も買わずの帰り道、買うものもないのに、町の文具店に入り浸っていた子どもの頃をなつかしく思った。

和紙調の縦書き便箋、エアメールの封筒、大学ノートのレトロな表紙、外国製の鉛筆や絵の具、革の表紙の日記帳、そしてショーケースに並んだ万年筆・・・・憧れがたくさんあって見るだけで楽しかった。大人になったらこういうの使いたいな~と、手にとってはうっとり眺め、棚に戻し、また眺め、戻し・・・。

自分が買うのはせいぜい筆記具なんだけど、それでも子供なりにこだわりもあった。

ジャポニカ学習帳は、なぜか勉強する気になる、ある表紙の写真があった。鉛筆は軸が黒っぽい三菱鉛筆より、緑っぽいトンボ鉛筆が好きだった。色とトンボの刻印が好きだった。軸の木もやわらかく感じた。でも消しゴムはトンボの「MONO」より、シード社の「レーダー」だった。消し心地やデザインが好きだった。コクヨの「キャンパスノート」はあるとき(ホームページによると1983年)デザインが変わって、すごいショックを受けた。下敷きも、モノによって字の書き心地、鉛筆が受けるやわらかさが全然違ったりするのでこだわった。

コレって私だけじゃないと思う。思えば、クラスで「MONO消しゴム」派と「レーダー」派なるものが存在していた。

文具って、子どもが自分のこだわりを追及できる貴重な分野じゃないかな、と改めて思う。

毎日に欠かせないものだし、せいぜい数百円の範囲だし。と言っても10円20円の違いですごい悩んだり。しかも小さな中に結構アートな世界がある。子どもでも手に届くアートな世界。そこで形成される美的感覚や経済感覚、選択眼、そしてモノへの愛着心って結構あるんじゃないかしら。

しかし、100円ショップだど、憧れの品を横目で見ながら鉛筆1本を買うとかいう経験がないんだな・・・・。そしてどれも100円だから値段の違いで悩むこともないんだな・・・・(どっちがお得かでは悩むかな?)。何でも100円で手に入るって、安易だな・・・などなど。

近い将来、タラコも自分で文具を買いたがるようになるだろうけど、日常に100円ショップか、スーパーのさびれた文具売り場しかないのは、何だかさびしい選択肢だな・・・と思うのです。ま、今しか知らなきゃ、その状況がつまらないとも何とも思わないのだろうけど。

文具店の消滅は、子どもにとって大切な世界が消え行くことでもある・・・なんて大げさかしら。でも、文具店のおじちゃんやおばちゃんと仲良くなる・・・なんていう身近な触れ合いもなくなるし。

デパートでも最近では、独自の仕入れをやめて、有名文具店をテナントに入れて任せているところが増えているらしい。それもいいけれど、文具特有のこまごました世界がどこも画一化していくのは、どこか寂しい。

あの昔のワクワク感・・・・恋しい。

2007年4 月16日 (月)

タラコの生態メモ

これまでタラコ本人について、あまり語ってきませんでしたが、
この辺で、近頃のタラコの生態について、メモ書きしておきます。

1)浅草にて、着物姿の若い女の人を見て、「わぁ、お姫さまね~」

2)民家の前に、下から2つ、2つ、1つと積まれた土のう袋をみて「くまさんみたいね」

3)箸のさきについたすべり止めの溝をみて「ぞうさんのお鼻みたいね」

4)中古車展示場で自動車に色とりどりのモールがかけられ装飾してあるのをみて
「見て、車に虹がかかっている!」

5)公園のベンチでカップルが小声ながらも何やら言い争う険悪なムード・・・・
おもむろに近づいたタラコ、「ちょっとぉ、ケンカやめてくださいね~」。
カップル、ア然。
私はあわててタラコの手を引っ張りその場を立ち去る。冷や汗・・・。

6)ベランダにて、下の道を通りかかった宗教の勧誘らしき女性に突然、
「こんにちはぁ!!わたしタラコ。今2歳、もうすぐ3歳!」と大きな声。個人情報流出。

7)公園のアスレチックで、遊具の上でこわがって動けなくなっている5歳くらいの女の子の横をすり抜けていくタラコ。
振り向いて「おねえちゃん。ここつかまれば怖くないよ。だいじょうぶよ」と生意気にアドバイス。
2歳児に言われたくないよね・・・・。

8)帰宅が遅くなると電話してきたパパに対し「ちょっとぉ、お外が真っ暗になるから、早く帰ってきな!」と命令。エライ。

9)朝、「ったくもぉ、朝から酔っ払ってぇ!!!」と突然いうので、
一応「誰のこと言っているの?」と聞いてみたら、「え?パパでしょ」。そりゃそうだよね。

10)公園で遊んでいるとき、「おしっこ!」と教えてくれたのはいいが、近くにいた知らないおじいちゃんに向かって
「ねえ、おじいちゃん、おしっこ連れてって」。頼むな!!

11)生協の配達のおばちゃんに「ねえ、ちょっとタラコの家で遊んでいきなよ」。
「遊びたいけどお仕事中なの」と言われると、
「じゃあ、お仕事早く終わらせていらっしゃい。パパッとね」。

まあ、とにかく、ようしゃべる。
いずれも、口調が私そっくりで、イヤになっちゃうというか家の中まる出しみたいで恥ずかしい・・・。

2007年4 月 9日 (月)

シリーズ・書写を考える<6>第一部「書写教育の今日的意義を問う」①一芸の春

  日本の子どもたちの学力を高めるためには国語力をつけなくてはいけないという考えが強まっている。今年度中にもまとまる国の次期学習指導要領では国語力の涵養が柱になる見通しだ。国語力の中心は「言葉」への理解度とそれを使う力であり、言い換えれば「言葉の力」の強化が求められている。教育タイムズではこの観点から言語能力の基盤と言える「手書き」文字に注目、それを学ぶ書写教育の今日的意義を探る「シリーズ・書写を考える」を連載することにした。そのプロローグとなる序章<中国に書写を問う・安徽省師弟旅>は評論・ルポコーナーで1月22日から同26日まで5回にわたり掲載した。今回の第1部は書写教育の全般について日本書写能力検定委員会首席副会長、大平恵理氏へのインタビューを中心に構成、おおむね毎週1回、月曜日に更新する。

          第1部「書写教育の今日的意義を問う」
                               ~大平恵理氏インタビュー~

 その1<「一芸」の春>

  「書写」という言葉は聞きなれない人が多いかもしれない。書道の方が耳に慣れているが、学習指導要領に定義されたれっきとした教科の一部の名称だ。芸術書道に対して「学校書道」とも定義できるもので、文字を正しく整えて読みやすく書くことがその真髄である。日本書写能力検定員会(略称・書写検、本部・東京都青梅市)は我が国屈指の書写教育団体であり、全国各地に書写検の指導法と教材による書塾が展開している。民放テレビ局がこの1月に企画放映した番組「日中書道対決」では毎日新聞社と書写検が共催する毎日全国学生書写書道展06年大会で内閣総理大臣賞を獲得した都立高校3年生が日本代表に選ばれ中国に渡った。“ホームグラウンドジャッジ”で書写検代表選手は惜しくも敗れたが、その書写検文字の美しさは多くの日本人視聴者に感動を与えた。

 その書写検ホームページ(http://www.shoshaken.com/)を開いて目に付いたのは<入試に生きる書写書道>という特集である。いわゆる「一芸」で培った力が認められて大学に合格する書写検生が増えているということをアピールしているわけだ。

――今春はどういう状況なのですか?
 大平 今年は、6つの大学、8学科で計8人の合格報告がありました。一芸を生かしてAO入試や自己推薦入試等で合格を果たしているわけですが、新たな大学や専門分野に合格している一方で、同じ大学が継続して評価して下さっています。このような評価方法が広がっていること、一芸への信頼が高まっていることの両面を感じます。また、合格を果たされた皆さんについては、一芸を磨く中で自分に対する自信や誇りが着実に育まれて来たことを感じます。

 今春の合格実績では特に早稲田大学教育学部に3人を送り込んでいるのが目立つ。教育学部は自己推薦入試枠を充実させ、文系、理系の全国大会で優秀な成績をおさめた者や生徒会活動に打ちこんだ生徒等に光を当てる選考を行っている。単にペーパー学力だけでは分からない「学ぶ力」という潜在能力を評価するもので、早大では追跡調査でも選考の正しさが証明されているとしている。ペーパー試験の学力によらず、この潜在能力と今後への志を重視する自己推薦入試やAO入試は広がりを見せており、文科省は国立大学でも来年度以降、自己推薦とAO入試で50%までは合格させてよいとする方向を打ち出した。
 
――書写を学ぶことで身につく一芸の力とは何ですか? 
大平 まず、何より正しく整えて読みやすく書く力があげられます。これは看板書き、賞状書きなど実用に役立つ力でもあります。一芸として書く能力がつく中で、心の力として、一つの事に根気よく取り組む忍耐力、困難に遭っても最後までやり抜き意志を貫く精神力などが養われます。そして一芸の力も、両親、先輩、先生、お世話になった方を敬う心、仲間や後輩に慈しみや思いやりの心を持ててこそ、価値があると思います。

  書写検は毎日新聞と共催で全国硬筆コンクールなど5つの書写全国大会を共催している。いずれも文科省が優秀な全国大会にお墨付きを与える「学びんピック」認定大会である。子どもたちはコンクールで他の子どもたちと競い合い、自分の能力をぎりぎりまで高める努力を継続することを身につける。また、階段を上がるような検定システムも学ぶ力を養うことに効果があるという。

――書写検の検定システムはどのようなものですか?
大平 「順序よく学べば、必ず上達する」が検定システムで一貫している考え方です。硬筆(えんぴつ・ペン)、毛筆基礎(半紙)、行書、草書、古典かな、細字など種別で分けた13検定を設けています。全ての検定が、段階を追った120課題で構成されており、課題に挑戦するごとにS(4点)・A(3点)・B(2点)・C(1点)・D(不合格)の五段階評価をします。累計点による段級位の認定、繰り返しチャレンジする再受験の導入、指導者ライセンス制度の併設などが特徴です。

 
――なかなか遠大な検定システムですが、学習塾に行かなくとも書写にまい進していれば希望の大学に入れると言い切れますか。
大平 書写にまい進していれば希望の大学に入れるとも、逆に学習塾に行っていれば希望の大学に入れるとも言い切れないと思います。昨今、AO入試や自己推薦入試など一般入試以外に多様な入試制度が設けられ、書写という一芸を生かして希望の大学に合格を果たす方が増えています。でもこれは、書写にまい進して合格したのでなく、一芸を磨く中で豊かな人間性が育まれたからと考えています。

Ohira_3 大平恵理氏 1965年生まれ、東京都出身。小学2年生から書写を始め、吉田宏氏(書写検会長)に師事、数々の全国大会でグランプリを受賞。大東文化大学に進み書写書道を学ぶ。2005年から書写検首席副会長に就任、お手本、教材作成、講習会での指導を担当。著書に、字を書く楽しみ再発見!をキャッチフレーズにした「えんぴつ書き練習帳」(金園社)などがある。元来は左利きで、幼少の頃はよく鏡文字を書いていたなどのエピソードを残す。2児の母。

2007年4 月 4日 (水)

日本語特区で考える人をつくろう

 東京都世田谷区の「日本語特区」がいよいよ動き出すそうだ。そういえばだいぶ前にニュースで読んだが、すっかり忘れていた。飛鳥山(北区王子)の夜桜を楽しむはずの会があいにくの氷雨で居酒屋での飲み会に。仲間の1人が世田谷区立中の先生だったのでその話題で盛り上がった。

 その先生の説明によると、授業は正式に「日本語」という学科として中学では週2時間行う。小学校は1時間だ。小泉政権時に始まった経済特区の1つ「教育特区」には書道特区、英語特区などがあるが「日本語特区は世田谷だけという。「深く考える児童生徒の育成」「自分の考えを表現する力やコミュニケーション能力の育成」「伝統文化の理解、尊重」が目的だとか。

 なかなか面白い試みだが、教える中身を聞いてさらに興味を持った。内容は文章表現、哲学、古典が3本柱という。特に哲学をやり論語を読むというところではひざを打った。実は自分自身も近く始める書写団体での「文章表現講座」で哲学を語り、論語の素読をやらせようかと考えていたからだ。

 デカンショ節という学生歌がある。「デカンショ デカンショで 半年過ごす あとの半年やぁ 寝て暮らす ~」。デカンショの意味には諸説あるが定説はデカルト カント ショーペンハワー という哲学者たちの名前の頭文字をつないだものだという。昔の学生たちは分からないなりに難しい哲学書を何度も何度も読んだ。それは自然に物を考える素養になったに違いない。

 書写団体での講座は小学校3年から成人まで受講生の幅が広くてやりずらいのだが、せめてデカルトの「我思う ゆえに 我あり」ぐらいはやってみようかと世田谷特区の話を聞いて改めて思った。今の教育に最も欠けているのは「心の教育」である。それも道徳授業のように徳目を並べ挙げるのではなく自分で古典を読み、あるいは哲学書をひも解いて考えさせる教育だ。

 日本語による心の教育を自分の講座でも実践しながら、世田谷特区のフォロー取材を続けていきたいと思う。