« 2007年6 月 | メイン | 2007年8 月 »

2007年7 月20日 (金)

すてきな3兄妹

タラコが生まれたとき、私たちは今の家のすぐ近くのアパートにすんでいた。

私たちが引っ越した後、しばらくして小学生の兄妹3人がいる家族が越してきた。

K君、Aちゃん、S君。コンビニでお弁当を買う3人をよく見かけたので気になっていたが、とくに挨拶や声をかけるでもなかった。

タラコが1歳で歩き始めたばかりのとき、公園でよちよちしてたら、お兄ちゃんのK君が、子どもたちが無造作に止めていた自転車を、黙ってスッと端に寄せた。

S君が「どうしたの?」と聞くと「自転車が倒れたら、赤ちゃんが危ないから」とボソッと答えた。

なんて素敵な心遣いなのだろう・・・ベビーカーの横をすり抜けるように自転車で追い越していく大人がいたり、子連れに温かくないと感じることも多かったなかで、小学5年生(当時)のさりげない優しさに、涙が出そうになった。

それから私は、彼らに挨拶するようになった。彼らは軽くうなずくだけだったけど。

その後、タラコは君たちの家で生まれたんだよ、と伝えると親近感を持ってくれたのか、よくタラコと遊んでくれるようになり、仲良くなった。そして、お母さんは別居しているとわかり、コンビニ弁当のナゾも解けた。

遊んでいても、タラコが触ると危ないようなものは、タラコが気づく前に黙ってすっと隠してくれる。

S君が悪ふざけすると「赤ちゃんがマネするから、やめろ」とK君が静かに制したり、さりげなく気を利かせてくれるのが、何とも心ニクいのだ。

公園に行ったときのこと。ある子がタラコの三輪車に乗ろうとすると、タラコは貸すのがイヤだと言い張って泣き出した。その子が「もう取らないから、ごめんね」と言ってくれているのに、タラコは壊れたステレオみたいに泣き叫び、しかもその子に向かって「だいっキライ!」」とまで言い放ち、どうにも手が付けられない。

公園から退散したところで、「タラちゃんも“ごめんね”しにいこう」と説いていると、ちょうど下校時間で、Aちゃんが走ってきた。「どーしたのっ?」、ぽんとタラコの肩をたたいた。

私が事情を説明すると、Aちゃんはじっとタラコを見つめて、

「タラちゃん、ごめんねって言いたい人なんて、どこにもいないの。でもね、ごめんねって言わないとお友達を傷つけたままなんだよ。だからみんな勇気を出してごめんねって言うの。今度お友達に会ったら、勇気出してごめんねって言うのよ。」

・・・・・なんて深いことを言うんだろう。私は感動してしまって、タラコへのイライラはどこかへ行ってしまった。Aちゃん以上の言葉が見つからなかった。

こういう兄姉を見ているからか、弟のS君も、静かながらもタラコの面倒を良く見てくれる。

公園で会うと、ブランコの背中を押してくれたり、階段で手をつないでくれたり。

友達と遊ぶほうが楽しいんじゃないかと思うんだけど、進んでやってくれるので、私はこれ幸いと「楽」させてもらってる。同じクラスの女の子に「S君て優しいのね~」と声をかけられ、無視しているのが、またカワイイ。

どうしたら、こんなじんわりした優しさを持てるようになるんだろう。私自身が学ぶことの多い3人だし、何よりよく遊んでくれるので、すごく助かるのだ。

もっちろん、タラコはこの3人が大大大好き。私の言うことは聞かないくせに、くやしいことに彼らの言うことは素直に聞く。

アパートの前で彼らの姿を見つけると、静止を振り切ってすっ飛んでいく。ご飯も食べずに遊んでいる。

まったくもう!でも、ま、いいか・・・と私はお茶を一服、一息つくのである。

2007年7 月19日 (木)

新聞教育支援センター旗揚げ

学校新聞作り、NIE授業の助っ人集団

 学校での新聞教育に力を貸したいーーこんな元教師・新聞記者らが集まって19日「新聞教育支援センター」を旗揚げした。求めに応じて小中高校での学校新聞作りに知恵を貸したり、NIE(教育に新聞を)授業のお手伝い、PTA新聞の手ほどきなどのお役に立とうというもので、もちろん非営利。近々ホームページも立ち上げる。

 同夜、東京・内幸町の日本新聞協会会議室に集まったのは立上げメンバー24人のうち私もふくめ13人。ほとんどが教師経験者で記者出身は2人。退職してから平均5年前後の人たちだ。全国新聞教育研究協議会(全新研)のOBが大半を占めている。

新聞教育に新風を

 支援センターと名前はいかめしいがほとんど運営ルールもないゆるやかなグループで、元教師や記者を活用して学校での新聞教育の発展に尽くすのが目的。暗黙の必須メンバー資格は新聞教育への熱意とでも言えるだろうか。会の代表は吉成勝好さん(元練馬区立小校長、学校心理士)。会合は地階の串焼き屋での酒盛りでお開きとなったのだが、学校新聞の世界に新風を吹き込むのではないかとの期待感を持たせるだけの発会式ではあった。その活動ぶりは教育タイムズでも折に触れて紹介していきたい。

 

2007年7 月17日 (火)

学校ぐるみで不正:足立区学力テスト

校長指示で見回り教諭が誤答の再考を指差し指示
 東京都足立区が行った06年度同区学力テストに不正行為があった問題で区教委は16日、記者会見し調査結果を発表した(各紙17日朝刊)。それによると学テ平均点が1位だった小学校で校長・副校長指示による不正行為が明らかとなった。手口は、試験監督の教諭が児童の間を巡回し、誤答している子どものテスト用紙の問題箇所を指差し再考を求めるもの。テストのあった2年以上の全担任が校長らの指示があったことを証言した。また同小学校では05年度の問題をコピーして児童に練習させていた。テスト作成業者が同じなので
ほぼ同様問題が出題されたという。
障害児の答案は採点からはずす
また同小学校では情緒障害児ら3人の答案を採点から除外する操作もしていた。この結果、05年度は全72小学校中44位だったのに06年度は1位にはね上がっていた。足立区は区内の小中学校を自由に選んで入学できるシステムを採用、また同区学テの学校平均点の順位を区のホームページで公表している。このため学校ごとの順位争いが過熱しているという。

<谷口のコメント>
◎なんと言うことだ◎
 やはりというか、あんまりだというか。足立区立小学校での学校ぐるみの学テ不正にはあいた口がふさがらないと言うしかない。このブログでも昨年7月17日、11月4日。同8日の3回、足立の学テ問題を取り上げた。足立区の父母の間では「テストになると風邪で欠席の子が増えるらしい。学校が成績のよくない子はテストからはずすため休ませるようだ」などのうわさが飛び交っていた。児童生徒に与える悪影響は計り知れない。せめていさぎよい責任の取り方で子どもたちに範を示して欲しい。

2007年7 月15日 (日)

 台風4号と偏西風

 台風の進路予報ほど当てにならないものはない。中部本社(名古屋市)での報道部デスク時代に手痛い失敗をしたことがある

 ある夏のその夜、私は朝刊番デスクだった。数日前に発生した台風が南海洋上を日本列島に向けて進んでいた。極めて大型で強い台風だ。しかもまっすぐに名古屋を目指している。嫌な予感がしていたが、どうやら今夜作る朝刊で上陸か否かの決着を付けざるを得ない情勢になってきた。

名古屋地方気象台に張り付いた記者からの報告などあらゆる情報を集めて必死で進路を予想しながら、緊張する警察・消防の様子や市民の動きを追う紙面を作った。上陸するとすれば伊勢湾の満潮時とぶつかりそうだ。死者・行方不明者5000余人を出した伊勢湾台風(1959年9月)の悲劇がいやでも頭をよぎる。

 街の表情,動きとは別に、いわゆる本記筋と言われる記事を作成しなくてはいけない。その中心は進路である。その昔、記者に向かって「気象庁の幹部宅を夜回りして本当の情報を取って来い」と命じたある社会部デスクの逸話を思い出した。気象庁は何か隠しているんじゃないか、と疑うとは、ほとんど職業病のようなものだが、それを笑えない心境だった。「今朝、東海地方に上陸へ」。「へ」と若干の含みを残しながらも大見出しを付けたのはもう最終版になってからだった。 

 明けてその朝、名古屋上空には青空が広がり、さわやかな秋風が吹き渡っていた。「朝刊で台風の進路に勝負を賭けるのは禁じ手だよ」。先輩デスクから注意を受けた。台風は偏西風に押されて一気に東へ進路を切り太平洋へ去ったのだった。

   「この4号の予報もはずれて欲しいのだが」。14日夜から15日未明にかけて私は20年近く前のその夜を思い出していた。14日夜、大隈半島に上陸した4号は極め付きの大型台風という。15日には私が関係する書写書道団体の催しが名古屋市で予定されており、開催するかどうかの判断を迫られていた。

 15日朝。決断する午前6時に台風4号は紀伊半島南端にあって進路予報円はしっかりと名古屋を捉えていた。名鉄も近鉄も始発から全面ストップしたままだ。全ての情報が「中止」を指し示す中でただ1つ、台風の航跡がわずかに東方向にぶれ始めているように見えるのに賭けた。「決行」の連絡を各地の担当者に伝えてから1時間半。名鉄が運転開始をネットで流すまで生きた心地がしなかった。台風4号は期待ほどには東にぶれなかったが、ぎりぎり暴風圏は名古屋市域をかすめ去ったのだ。 20年前のかたきを取った思いだった。