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2007年8 月 8日 (水)

 書写と書法と英語力:日中学生交流から

China_2  湖面を涼やかな風が吹き渡り、眼前に雄大な富士山がそびえる山中湖畔。日中学生書法交流会場に充てられたある企業保養所の食堂でお茶を飲んでいたら流暢な英語で話しかけられた。「エクス キューズ ミー」。振り向くとかたわらには中国人女子中学生がにこやかに立っている。思わず「キャン ユー スピーク イングリッシュ?」と問い返すと「ア リトル」と返事が返ってきた。しかし実際に会話を始めたら当方の貧しいイングリッシュでは付いて行けないほど相手はうまかった。

 小3から英語

 山中湖畔で8月6,7日に行われた中日学生書法交流会。参加してある意味でショックだったのは交流共通語がもっぱら英語であるという現実、そして中国人生徒の高い英語力だった。

 学生といっても双方とも中心層は中学生。蘇州市の書道団体と日本書写能力検定委員会(略称・書写検、本部・

青梅市

)の書写書道交流で子ども数は中国側が30人、日本側が17人。 

聞けば大半の子は小学校3年生から英語を習っているという。もっともピアノや絵画などのお稽古事をしている子も多く、蘇州市の富裕層の子供であるのは間違いない。書写検は30年前から両国を会場に書写書道(中国では書法)交流を続けているが、近年の中国側の変貌振りは目を見張るものがあるという。

 

その変貌の光と影はオリンピックに向けた中国を描く各新聞の中国特集で読んでいただくとして、私がまず感じたのは英語が唯一の国際共通語である現実はもはや争う余地はないということ。そして中国に普通教育が行き渡り、あれだけの人口がバイリンガルになったときのパワーのすさまじさだ。英語を呑み込んだ中国に国際世界の中心が移っていく気がしてならない。

書写・書法は伝統文化守るとりで

 交流のメーンイベントは席書。中国では座って書く習慣がないため中国人生徒はやや苦しそうだったが日中参加者は向かい合ってそれぞれ作品を仕上げた(写真)。書体はいくらか異なるがまさに「同文同種(同じ漢字文化で人種的にも同じモンゴロイド)」という言葉を強く実感する光景だった。そして双方の指導者が口にしたのは「文字が自国の伝統文化の基礎であり、その発展に力を尽くしたい」という決意だった。

 

どうやらお金につながりにくい書写・書法が子どもたちに受けが悪いのも日中双方共通の悩みらしい。中国側利リーダーの1人が「人気は起業に向くコンピューターなんかですね」とつぶやいた。「でも人間教育も含めて書法は絶対普及させたいです」。全く同感であった。   

2007年8 月 6日 (月)

蝉の声に思う

蝉の鳴き声は、不思議だ。

騒々しくて胸を乱すようであり、哀しくて胸のうちを押し込めるようでもある。

生の尊さを叫んでいるように聞こえるからか、何ともいえない胸苦しさを覚える。

『ずいせん学徒の沖縄戦』(宮城巳知子著、ニライ社)という本を読んだ。

ずいせん学徒とは、戦争当時沖縄にあった7つの高等女学校がそれぞれに結成した看護要員隊の一つである。宮城さんはずいせん隊の一人だった。

ひめゆり学徒隊がよく知られているが、ずいせん隊は学徒数が少なく、また生き残った関係者が散りぢりになるなどで記録がなかなか残らなかったため、存在が埋もれてしまったという。

長年平和ガイドを務めている宮城さんは、前書きで、「学んだ者がなぜ書くのをいやがるか。なんでも書くことが大切になる」という母の口癖の重要さを今ほど感じているときはない。話し言葉は消えてしまう・・・と本執筆の動機を述べている。

ずいせん隊は最前線の主力部隊に従事し、激しい戦線の中を生き延びねばならなかった。

宮城さんが便所で用を足している最中に背後の板壁が機銃掃射をあびて吹き飛び、うつぶせたまま九死に一生をえたこと、足手まといになる兵士に毒薬の注射が打たれたこと、毒ガス攻撃からの脱出・・・そこに書かれていることは、今の沖縄の澄み切った海の静けさとはかけ離れた地獄図。

戦争を知らない者は思いを馳せることしかできないのだけれど、当時を知る方々が懸命に書いてくださったものに目を向けて読みついでいくこと・・・・その努力を怠ると、気がついたらこの国が恐ろしい方向に進んでいるかもしれない。

照りつける太陽と息苦しい熱い空気、粘りつくような蝉の声を聞きながら、62年前の夏を今年も思う・・・。