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2006年8 月26日 (土)

トイレとオムツと五味ワールド

とうとう始めました!タラコのトイレトレーニング。
2週間ほど前からで、成功率8割ってとこかな。だいたいは自分で「オシッコ!」と言いに来て、ちゃんとトイレでできるようになったけれど、何かに夢中になっていたり、機嫌が悪かったり、緊張していたりすると、間に合わないで「あ~…」となる。

もともと夏にやってみようと考えてはいたけれど、よし!と思い切ったきっかけは2つ。
1つは、オムツの胴回りにあせもがひどくなってしまったこと。オムツの蒸れはすごい。

2つめは、最近オムツ替えが一大事になっていたこと。
というのは、「パンパ(オムツのこと)替えよう」と言うと「いやぃ!」と散々逃げ回ったあげく、ぬいぐるみを全部出してきて、「みんな、パンパよ!」と言う。つまり、みんなにパンパをはかせろ、と。ただはかせるだけじゃない。全員ちゃんと自分がやるのと同じように、おしりを“ふきふき”しなくちゃダメなんです。まずは、ミッフィーちゃん、くまちゃん、スヌーピー、ミッキー、ワンワン、カエルさん……と総勢10名。全員済んだところで「タラコ、じゅーんばん」と自分で言って、ようやく観念してくれる。一日に何度も11人の子のオムツ替えですよ……3ヶ月ほど頑張ったけれどホトホト疲れ果て、オムツ卒業を決意したのです。

でも、おかげで1冊の本を思い出すことができました。ある日、10人の子のオムツを替えながら、「ねぇ、タラちゃん。ワンワンもカエルさんも、生きているものはみんなウンチをするんだね」と何気なく言ったところで、あれ?どこかで聞いたフレーズ???あーそうだ!!!五味太郎さんの『みんなうんち』という本にまさしく同じ下りがあったのです。五味さんの感性に思いがけず生で触れた気がしてブルッとしました。

この本はたしか、ウサギのころころウンチやゾウのどっかりウンチや人間の子どもなどがウンチをしている絵が続き、最後にこの下りがあったはず。昔、大好きだった1冊。
以前、雑誌のインタビューで五味さんは「子どもの目線を意識しているわけじゃなく、自分が面白いと思うことがたまたま子どもに面白いと思われているだけ」という趣旨のことをおっしゃっていました。
しかし、「動物や人間がウンチをする」だけの大人にとっては「あたり前中のあたり前、常識中の常識」のことを「面白い営み」と見逃さない感性ってすごいな~と改めて感心したのです。絵本の題材とはすぐそばに転がっているけど、それを澄んだ目で感じ取れるかなんだろうなぁ……そんな思考が、オムツを替えながら頭をめぐったワケでした。

実家の物置であの本を探してみようっと。きっとタラコも面白がってくれるだろう。そしてトイレに行くのがもっと楽しくなるかもしれないな。

2006年8 月24日 (木)

ニートに「発達障害」例

  いわゆるニートと呼ばれる若者の中に生まれつきの脳の機能障害である「発達障害」の疑いのある人が含まれていることが厚労省の調査で明らかになった(読売24日朝刊1面)。「『頑張ればできる』式の職業訓練は発達障害者には強度のストレスとなり、うつなどの二次障害を生じさせる」という専門家の意見もあり、同省は実態をさらに調査したうえで就労支援策の見直しをする。

ニートは仕事も通学もせず、職業訓練も受けていない15-34歳の若者を指す言葉。発達障害は他人とかかわることが苦手で言葉の遅れがある「自閉症」、自閉症と似ているが言葉に著しい遅れがみられない「アスペルガー症候群」、注意が散漫で衝動的な行動を取る「注意欠陥多動性障害」、読み書きや計算が苦手な「学習障害」などに分類される。知能的にはまったく問題ない場合もあり、原因については専門家の間でも意見が分かれている。調査はニートの若者155人を対象に行い、23%に発達障害あるいはその疑いがあることがわかった。

<コメント>◎慎重な科学的裏づけを◎
近年、関心が高まり始めた発達障害だが、事件などマイナス行動と結び付けるには慎重な上にも慎重な科学的分析が必要だ。患者団体も安易な関連付けで発達障害児者が社会から偏見の目で見られることを恐れている。今回は厚労省の責任ある調査で出た結果を基に政策の変更を行おうという流れの中での記事であり1面トップに置くだけの価値はある。23%というのは高すぎる数字でにわかには信じがたいが、見逃せない数字であるのは間違いない。

発達障害とはっきり診断されないまでも、不適応の症状を見せる子どもたちがどんどん増えているのは事実だ。親しい退職校長がある区の教育相談員をやっている。ニュータウンに置かれた同区の教育相談室にその元校長を訪ねてあまりの盛況ぶりに驚いた。相談のための部屋が5室あるのだがわが子の教育相談に見える保護者らで終日フル稼働。どうしても必要なときは隣の公園のベンチで青空相談をやっているという。その元校長も1日7コマ(相談)をこなしている。その多くが学校不適応や発達障害の疑いがある子どもについて。自分の歩んだ学校現場ではなかなか見えなかった現実に驚くばかりという。なぜ、そんなに多いのかという問いにその元校長は「やはり社会が息苦しい、ということなのだろうか」と自問するように答えた。

ニート問題は日本の将来に覆いかぶさる暗雲である。様々な角度からの対応を急がねばならない。

2006年8 月23日 (水)

注目集める教育バウチャー制度;安倍氏政権構想

  自民党総裁選に臨む安倍官房長官は政権公約の重点を「改憲と教育」に置くことを決めた(朝日23日朝刊1面)。安部氏はこれまでも講演などで「私たちが取り組まなければいけないのは教育の再生だ」と語ってきた。公約では継続審議となっている教育基本法改正案の早期成立を図り「家庭や地域、国を愛する教育」を目指すなど保守色の強い内容。教育バウチャー(利用券)制度は、子どものいる家庭に一定額の教育利用券を配り、親はその利用券を使って好みの学校で子どもに教育を受けさせることができる仕組み。学校選択の自由を広げ、学校間の競争を促がすことができる。

今月18日付けの本欄では麻生外相の政権構想原案でも「教育バウチャー(教育利用券)制度」の導入が盛り込まれることを伝えた。

 <コメント>◎負の部分の議論もきちんと◎
  バウチャーはアメリカの経済学者フリードマン氏が1962年に著した「資本主義と自由」にさかのぼる概念とされる。教育バウチャーも古くから言葉は知られていた。特に私立学校の占める比率が高い東京では公私の教育費負担を解消する手段として注目されてきた。バウチャー券は個人に支払われるからそれで私学へ子どもをやれば親の負担もだいぶ助かる。例えば都立高校にかかる費用を生徒一人当たりで割り直して年額20万円(?)のバウチャー券を発行すれば私学授業料の半分近く(?)が助かる、といった勘定だ。1980年代の初め、都議会社会党(当時)が「公私財政共通制度」案なるものを打ち出すという記事を1面で大きく書いた記憶があるが、それも一種のバウチャー制度の変形だったと思う。最近では不登校の児童生徒が通常の教育システムから外れた場合、フリースクールなど非定型の教育機関で教育を受ける際の費用に使えるという面からも注目されている。

 バウチャーと学力向上の相関関係は明らかになっていないが、公立不信の風潮の中で総裁選を機にバウチャー論議が一気に高まりそうだ。問題なのはバウチャー制度が市場原理主義に基づくものである以上、教育に過度の競争を持ち込む危険性があることだ。序列上位の学校にバウチャー券が流れ込むのは市場の常である。この先鋭化する学校の序列化が何を生み出すかは戦後社会が十分に経験してきたはずだ。教育バウチャー制度の導入には、経済格差社会の是正とにらみ合わせながら具体的なイメージで多面的な論争が不可欠と思う。

2006年8 月21日 (月)

応援団ジャーナリズム

 このところどの新聞も地方版は甲子園野球に占拠される日が続いた。特に引き分け決勝戦を伝える21日都内版はほとんどを早実対駒大苫小牧の決勝戦記事で埋め尽くしている。昔から春と夏の高校野球シーズンの集中豪雨的報道は読者のひんしゅくを買ってきたのだが、いっこうに改まりそうにない。野球に興味のない人から見れば実に腹立たしいに違いない。どの地域にも、もっと目を向けなくてはいけない問題がたくさんあるだろうに、それらのニュースは弾き飛ばされている。

おまけにどこの新聞も都内版には駒大苫小牧の話しはほとんど出てこない。見事に早実一辺倒紙面なのだ。地域対抗のスポーツ大会を伝える時の地域面は特有の応援団ジャーナリズムで彩られる。不偏不党、公正中立を求められる新聞記者にとって、一方の当事者に完全に肩入れして報道する機会は限られた場面しかない。経験者として正直に言うと、特に高校野球報道で顕著なこの応援団ジャーナリズムは記者個人のストレス解消にもなっている。「お姉さんは君たちのことを忘れないよ」という文句で敗退の県版リードを書き起こした女性記者がいたけれどもちゃんと紙面になった。読者には何の関係もない迷惑な思い入れに過ぎないのに、である。

まあ身勝手な応援団ジャーナリズムではあるけれど、新聞記者も血潮をたぎらして熱く語りかける機会をもっと持ったほうがいいのではないかと最近思う。若い記者の沸点が高い、つまりなかなか燃えないというのがマスコミ共通の嘆きとも聞く。強気をくじき弱きを助けるのはジャーナリズムの本道だが、弱い立場の人たちへの激しい思いいれがないと破邪顕正、勧善懲悪の筆は振るえない。

とはいえ、各紙地域版とも愚にもつかない雑感記事が多すぎる。その中で毎日東京版の「178球を投げ抜いた時、斉藤投手の母しづ子さん(46)は泣いていた」で書き起こしたメーン記事は良かった。甲子園球場全体が歴史に残る試合だと賞賛の声を送る中で「母はただ泣き続けた」で締めくくったわずか20行の記事だが、高校球児と母という1つの世界を鮮烈に切り取った秀作だ。応援団ジャーナリズムも読者にまるで感動を呼び起こさないのでは新聞にプリントする価値はない。明日の22日朝刊都内版も早実優勝記事で埋まるのだろうが、読むに値する記事がどれほどあるだろうか。

2006年8 月18日 (金)

政権構想に教育改革;麻生氏

 麻生外相の総裁選に臨む政権構想原案が17日明らかになった(読売18日朝刊4面)。安倍氏もすでに教育基本法の早期改正など教育政策に力を入れる方針を打ち出しており「教育」が総裁選の争点として脚光を浴び始めている。麻生氏の改革案の中身は①就学年齢の前倒しによる幼児教育の義務化②道徳教育の強化③教育費の負担軽減、など。「教育バウチャー(教育利用券)制度」の導入も盛り込むという。安倍氏は迅速な改革を推進するために中教審の上位に首相直属の「教育改革推進会議」(仮称)の設置を検討している(読売13日4面)。ホットな教育政策論議が高まりそうだ。

 <コメント>◎国家の教育過剰関与に警戒感も◎
  自民党総裁選で教育改革を施政方針案の1つに挙げることは珍しくないが、それがメーンとして、また各候補が競う形で公約に掲げるのは珍しい。その背景には今の日本社会が直面している危機があると思う。親殺し、子殺しに象徴されるような社会のたがの緩み、崩壊現象はどこから起きているのかを考えるとき、誰もが教育のあり方に思い至るだろう。しかし、教育制度をいくらいじっても根本的な解決策にならないのは歴史が証明しているのではないか。こうした社会病理はもっと広く、例えば家庭や家族のあり方とも深くかかわっているからだ。制度改革で教育がよくなるという過信は禁物だ。本来教育は制度と対極にある人間個人の営みであり、政治は外側の条件を整えるところで介入を止めるべきだ。教育政策論議が政権党の中枢で高まることは大歓迎だが、道徳教育など心の領域にかかわる分野で強権行政に陥らないよう監視の目を強めることが大事だ。

2006年8 月16日 (水)

軟派

  近くの団地の中を貫通する桜並木を散歩したら、すごいセミ時雨だった。行く夏を惜しむかのようなセミの大合唱はどこか物悲しい。セミの寿命は7年だから大量発生は7年周期で繰り返すという。そういえば、21年前の夏にもすごいセミ時雨を聞いた。

 1985年8月15日。当時、社会部国会担当だった自分は朝から靖国神社に詰めていた。中曽根康弘首相が戦後の歴代首相として初めて公式参拝に踏み切ることが決まっていた。異様な緊張に包まれた境内を太陽がじりじりと焼く。不測の事態を警戒しながら参道を埋め尽くした人波をぬって歩いていたら、くらっと目まいがした。3日前の日航機墜落事故以来まともに眠っていない。あっ、と振り仰いだときの空の青さと滝のように落ちてきたセミの声が今も脳裏に鮮烈だ。

 ガリ、ガリ。道路から入ってきた黒塗りの車が直角に曲がって第二鳥居をくぐり、参道の玉砂利を噛みながら10メートル近く走って止まった。長身の首相が降り立ち、大股で拝殿へ向かう。ここから歩くだろうと第ニ鳥居の前で待機していた我々はあわてて中曽根さんを追おうとしたがSPに阻止され、参道は行けない。参道脇の人垣をかきわけ拝殿に着いたときには背広の背中が汗でぐっしょりと濡れていた。

 「やりやがったな」。突撃インタビューをすかされた悔しさと同時に「英霊に対して失礼じゃないか」と怒りを感じたのをはっきりと覚えている。誰であろうと下馬をして拝殿に進むのが当然の儀礼ではないか。それを警備上の都合を理由に不遜な乗り入れを敢行したことに靖国公式参拝が慰霊とは無縁の単なる政治パフォーマンスに過ぎないことを感じ取った…そんな気分だった。

 紙面は日航機墜落事故の続報があふれていたので、公式参拝関連の社会面は靖国軟派一本で行くことになった。新聞記事には硬派と軟派という呼び方がある。政治・経済面を硬派、社会面を軟派と総称するのが広義の使い方。それと別に出来事の筋をまとめて書くのが硬派原稿、あるいは本記と呼び、現場を踏まえ情感も含めて綴る記事を軟派、あるいは受けと呼ぶ狭義の使い方がある。狭義の軟派は記者の寄って立つ位置、つまりスタンスや感性が決め手とされ、社会部記者は一人前の軟派を書きたいと常に思っているものだ。

原稿を書き終わった夕方、新聞社からほど近い靖国神社にもう一度行ってみた。手を合わせて首相を拝む老婆、警官に厳しく包囲されながら「参拝反対」を叫んでいたキリスト教団体。そんな昼間の喧騒はうそのような境内で、もう夕暮れだというのにセミがこれが最期だとばかりに張り裂けるような声で鳴いていた。「英霊に失礼だなんてどうして感じたのかなあ」。ふだん靖国には全く関心がなかった自分の思ってもみなかった心の動きを振り返ったがよく分からなかった。

「ちょっと手を入れさせてもらうけれど特に問い合わせはないよ」。デスクの許可を得てそのまま帰宅し、翌朝新聞を見て驚いた。原稿の思い入れ部分はことごとく削られて、ただの見た目を綴っただけの記事になっていた。こういうのを雑感記事という。悪く考えればデスクの思いと同調する原稿ではなかったのだろうが、スタンスが揺れ、感情が先走っていたのだろうと反省することにした。

この夏、靖国論議がひときわかまびすしい。15日には小泉さんも参拝した。新聞によると「昨年10月は第二鳥居の外側で車を降り、一般の参拝者と同様に拝殿で参拝したが、今回は到着殿に車で乗り付けた」(朝日15日夕刊社会面)という。警備上極めてノーマルなスタイルを取ったのだろう。小泉さんの動きと表情を追った朝日社会面がもっともいわゆる軟派に近いが、考え方は人々の談話に託す形を取っている。現場に立つ記者1人の思いで切るには荷が重すぎたのだろう。おびただしい「英霊」の存在は日本人にとって一刀両断できない極めて重い存在なのだ。また、そうあらねばならない。

 あの日のセミ時雨が英霊たちの慟哭に聞こえた感覚を今も覚えている。

2006年8 月 7日 (月)

ネット時代の寺子屋

 埼玉県所沢市のはずれにある小さなパソコン塾を取材した。教室は民家の2階の6畳間。先生は営業畑から身を転じた50歳の主婦である。生徒は小中学生合わせて13人。月謝は1人8000円ほど(週1回1時間が4回)だから、「趣味の範囲ですよ」(先生)というわけだが、なかなかに楽しそうである。

  子育てに向いた仕事はないかと探しているときに、あるパソコンスクールチエーン会社の指導者募集広告を見た。パソコンは全く素人だったが、研修を受けさらに独学で勉強して教えるにふさわしいスキルを習得した。自宅の1室を教室に当てて開業したのが7年前。

  教材は本部が提供してくれる。おまけにネット時代だから教材は本部のサーバーから次々とダウンロードできるところがいい。この日も1人の生徒はパソコン画面の講師からオンライン講義を受けていた。6畳間が日本全国標準レベルの教室になるわけだ。

  パソコン塾といっても学んでいるのはさまざま。この日6年生はことわざつくりに挑戦していた。「虎の威を借る××」に文字を入れる。2年生は算数。ところどころで表作り色塗りなどのパソコン操作が加わる。「最近は学力向上を強調する側面が強くなりました」と先生が教えてくれた。

  隣のおばさん的な気さくさの先生は学校の教師とは一味違う生活感がある。指導ぶりはおもねるでもなし、威張るでもなし。てきぱきとかつ親身だ。この日の生徒は小2と小4、小6が2人、中2の計5人。小2以外は女子である。それぞれ学年も進度も違うので教える側は大変だが、5人だからなんとか目が届く。「あの子は芯が強いと思いますよ」など、子どもをよくつかんでいるようにも思えた。壁にはインターネットを通じて行われる入力コンクールなどのポスターがいっぱい張ってある。そこには小さな部屋がネットで全国とつながっている実感があった。

  もちろん塾と学校とは機能も実態も異なるが、同じ空間、同じ時間に子どもたちを閉じ込めなくてはいけないという強迫観念はもはや捨ててもいい時代ではないかと、6畳間の寺子屋でふと思った。

2006年8 月 6日 (日)

ほめて育てる;「女の気持ち」

 毎日6日朝刊生活家庭面の読者投稿欄「女の気持ち」に18歳の高校3年生が<一言>というタイトルで書いている。彼女は幼い頃から母親にほめられたいと 願ってきたのに、どういうわけかほめてくれない母親が嫌いだった。高校生になってからはそんな気持ちもとうに忘れてしまっていたが、あるとき夕食の席で突 然母親から「あんたの送辞ね、会社に持っていってね、人に見せたんだよ。『あんたはいい娘もったねえ』って言われて、お母さんも『あ、そうだな』って思っ たよ」と言われた。在校生代表で任された送辞が「学校たより」に載って母親の目に触れたのだった。この一言で「ぶわっとのどの奥が熱くなった」私は「ふー ん」と言いながら自分の部屋に逃げこんだ。「年をとっても私はきっとこのお母さんを守っていってあげるんだろうと思ったのは、18年間生きてこの日が初め てだった」そうだ。

 <コメント>◎親の心、子知らず。語らなくてはね◎
 「女の気持ち」は毎日を代表する名物投稿コラムの1 つ。日常生活で女性たちがふと感じる心のひだを表現した作品が目立つ。愛読者も多いが同紙の読者層を反映してか中高年のご婦人の投稿が多く、18歳は珍し い。この作品は女の気持ち、というよりも多感な少女とその母親との心の交流の一こまを鮮やかに切り取った秀作だ。子どものころ母親にもっとほめてとすねた こともあるという彼女はお母さんが好きでしかたがない子なのだろう。一方のお母さんはきっと朴訥で誠実な人柄に違いない。娘から見れば、どことなくもっと 踏み込んだ、繊細な会話が欠けたままに過ぎてきたのかもしれない。これが男の子だったらどのような展開になったのか分からないが、ほめることも含めて親は もっと饒舌に子どもに語りかけた方がいいようだ。

2006年8 月 5日 (土)

サダコとタラコ~戦争の夏

子どものころ、8月はただただ楽しい夏だった。それがいつからか、8月は胸が痛む季節になった。戦争について考えさせられる季節だから。

今年はその痛みがいっそう強い。
広島の平和公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さん(以下サダコ)は2歳で被爆した。そして我が娘タラコも今2歳。

タ ラコは毎日とても楽しそうだ。ずーっと歌を歌ってるし踊ってる。「ホットケーキつくろ~!ミッフィーちゃん食べる?フライパンここね。あ、お皿どこか な?」など大好きなうさぎのぬいぐるみに話しかけながら、おままごとしている。泣いたり笑ったり、ホント忙しい。サダコもこんなふうにおしゃべりを始めキ ラキラ輝いていたにちがいない。
タラコとサダコを重ねると言葉がなくなる。
絶対にタラコをそんな目に遭わせたくない。

3 年前、私は広島の被爆者の佐伯敏子さんにお話を聞いたことがある。彼女は語り部として広島を訪れる子どもたちに体験を話している。兄弟の全身皮膚がはがれ て“おばけ”みたいになったこと、そこらじゅう横たわる遺体に「ごめんなさい」と言いながら踏み越えて肉親を捜したこと……涙を流しながらよどみなく体験 を語る老女。彼女は同じ話を何百回何千回としているのに、その度に苦しい涙を流しているにちがいない。

思えば、彼女の話を聞いたあの時、気づいてはいなかったけれど私のお腹の中にはタラコが命が宿っていた。
戦争を知らない自分であるけれど、タラコにもちゃんと伝えなさい……という啓示に思えてならない。

サ ダコはその後元気に幼少期を送るけれど、12歳で突然原爆症を発病する。病床で快復を祈り鶴を折りつづけたが力尽きた話が伝説になっている。最近、サダコ が最期の時を過ごした広島日赤病院入院中の姿を記した本(『想い出のサダコ』著・大倉記代 よも出版)を読んだ。命の輝きを奪った原爆とは何なのか、戦争 とは何なのか。
もしサダコのことを知らない人がいたら、ぜひ知ってください。いろいろと本があります。

60年も泣き続けている老女。その苦しみを知って伝えていく――繰り返さないためには、それしかない。体験してはならないのだから。

「真赤な空は忘れられない」

  区役所に行ったついでに区政資料室に寄った。先日も書いた「名探偵・浅見光彦の住民票」を売っている場所である。書棚を見ていて1冊の本が目に留まった。「真赤な空は忘れられない」。-戦争体験の記録―と副題が付いている。店番の職員によると、その本はすでに絶版で売り切りになるということなので1冊買った。

  昭和63年(1988年、東京都北区編集・発行)。B5判変型?263ページ。500円玉でいくらかお釣りがあった。あとがきによると、区民から戦争体験記を公募したところ201編が集まり、区役所部課長による編集委員会が審査して120編を収録したという。

  読んでみて、収録された体験記が北区内で起きた話ばかりではなく、実に幅広く多方面なのに驚いた。編集も疎開、空襲(北区内)、空襲(東京)、空襲(東京外)、戦地(東南アジア)、戦地(中国)、戦地(シベリア)、戦地(内地)、引き揚げ、その他の構成になっている。

米軍機による空襲は日本全土を被った。「三月十日、家族全員の焼死体を見た日」(神谷2丁目、細貝若記さん)は昭和20年3月1日未明の下町大空襲の悲惨を描いている。当時、深川にあった細貝さん宅は焼夷弾の直撃を受け、家族全員が外へ飛び出した。妻子は川向うの親戚へ逃げることになり別れるが、夜が明けて細貝さんが親戚宅の焼け跡で見つけたのは家族4人の焼死体だった。一晩で10万人以上が死んだといわれる下町大空襲。追い打ちをかけた広島、長崎の原爆。細貝さんはこう書いている。「それ(原爆)からは空襲でも防空壕には入りませんでした。もはや運を天にまかせるしかありませんでした」。
  この夏、靖国神社のA級戦犯合祀をめぐる論議が盛んだが、日本の戦争指導者とともに日本全土に狂気の無差別大殺戮を敢行したアメリカの指導者もまた正義と人道の名の下に裁かれるべきではなかったのか。

外地の様子もすさまじい。「私は毒ガスの凄惨を見た」は軍楽隊伍長だった野崎勇さん(東十条3丁目)の回想。昭和16年(1931年)、中国大陸の揚子江沿いの最前線。ある日、近くで白兵戦の銃声を聞きながら恐怖の夜を過ごす。明けて第1線へ行って見た光景は地獄そのものだった。毒ガス、イペリットで焼けた敵の死体が散乱していた。野崎さんは書いている。「毒ガスは1925年(昭和元年)のジュネーブ議定書をはじめ、国際法上禁止されており、我が軍の毒ガス使用は国際法違反である。が、しかもそのガスによって結果的に、私自身、命が助かった事も事実であり、複雑な気持ちである」。

  被害と加害が複雑に織り成す戦争体験。そのどちらに偏っても歴史の真実には迫れない。「真赤な空は忘れられない」編集から18年。証言はますます重みを増している。