「真赤な空は忘れられない」
区役所に行ったついでに区政資料室に寄った。先日も書いた「名探偵・浅見光彦の住民票」を売っている場所である。書棚を見ていて1冊の本が目に留まった。「真赤な空は忘れられない」。-戦争体験の記録―と副題が付いている。店番の職員によると、その本はすでに絶版で売り切りになるということなので1冊買った。
昭和63年(1988年、東京都北区編集・発行)。B5判変型?263ページ。500円玉でいくらかお釣りがあった。あとがきによると、区民から戦争体験記を公募したところ201編が集まり、区役所部課長による編集委員会が審査して120編を収録したという。
読んでみて、収録された体験記が北区内で起きた話ばかりではなく、実に幅広く多方面なのに驚いた。編集も疎開、空襲(北区内)、空襲(東京)、空襲(東京外)、戦地(東南アジア)、戦地(中国)、戦地(シベリア)、戦地(内地)、引き揚げ、その他の構成になっている。
米軍機による空襲は日本全土を被った。「三月十日、家族全員の焼死体を見た日」(神谷2丁目、細貝若記さん)は昭和20年3月1日未明の下町大空襲の悲惨を描いている。当時、深川にあった細貝さん宅は焼夷弾の直撃を受け、家族全員が外へ飛び出した。妻子は川向うの親戚へ逃げることになり別れるが、夜が明けて細貝さんが親戚宅の焼け跡で見つけたのは家族4人の焼死体だった。一晩で10万人以上が死んだといわれる下町大空襲。追い打ちをかけた広島、長崎の原爆。細貝さんはこう書いている。「それ(原爆)からは空襲でも防空壕には入りませんでした。もはや運を天にまかせるしかありませんでした」。
この夏、靖国神社のA級戦犯合祀をめぐる論議が盛んだが、日本の戦争指導者とともに日本全土に狂気の無差別大殺戮を敢行したアメリカの指導者もまた正義と人道の名の下に裁かれるべきではなかったのか。
外地の様子もすさまじい。「私は毒ガスの凄惨を見た」は軍楽隊伍長だった野崎勇さん(東十条3丁目)の回想。昭和16年(1931年)、中国大陸の揚子江沿いの最前線。ある日、近くで白兵戦の銃声を聞きながら恐怖の夜を過ごす。明けて第1線へ行って見た光景は地獄そのものだった。毒ガス、イペリットで焼けた敵の死体が散乱していた。野崎さんは書いている。「毒ガスは1925年(昭和元年)のジュネーブ議定書をはじめ、国際法上禁止されており、我が軍の毒ガス使用は国際法違反である。が、しかもそのガスによって結果的に、私自身、命が助かった事も事実であり、複雑な気持ちである」。
被害と加害が複雑に織り成す戦争体験。そのどちらに偏っても歴史の真実には迫れない。「真赤な空は忘れられない」編集から18年。証言はますます重みを増している。
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