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2006年9 月28日 (木)

小学校での英語必修化は不要;新文科相

  安倍新政権の文部科学大臣に就任した伊吹文明氏は27日、次期学習指導要領に盛り込まれる見通しの小学校5年生以上の英語必修化について反対の意向を明らかにした(毎日28日朝刊2面)。週1時間を盛り込む方向だが同相は「必須化する必要は全くない。美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメ」と語った。文科省が行なった市民からの意見募集(パブリックコメント)でも消極的な意見が約4割を占めているという。伊吹氏は英語教育よりも最低限の素養や学力を身に付けさせるのが先決だという認識を示し、中教審が答申に盛り込んだ場合についても「お考えを入れるかは、私が判断しなければいけない」と述べた。

 <谷口のコメント>

◎その通りだ。しかし◎
  どういう場面での伊吹発言なのか記事に説明はないが、たぶん<注目閣僚に聞く>という企画で個別インタビューを27日にした際にしゃべったのをすかさず記事にしたのだろう。他紙でも今後同様の報道が相次ぐだろうが文部官僚との確執をどう乗り切るかが見物だ。私見を言えば、小学校での英語必修化は不要という意見は正しい。国語教育が優先するべきだという考えにも大賛成だ。当面の教育改革に小学校段階での英語必修化の余裕はないと考える。

しかし、21世紀の世界では英語がますます共通語化していく実態は受け入れざるを得ない。世界に通用する日本人を育てるために義務教育で外国語教育はどうあるべきか、は常に議論されなくてはいけない。その中で、できるだけ幼少期から外国語に慣れさせるべきという意見があるのは理解できる。国の品格を論じるある評論家が「どうせ皆に英語を教えたところでものにならない」的な物言いをしているのを読んだが、自分は英国の大学人といかに懇意であるかをひけらかすエッセーも書いていた。できる者だけが外国語を、というのは選民思想であり、皆にチャンスを、という普通教育の理念になじまない。言いたいのは、現状は小学校段階での英語必修化を論じる状況にない、ということだ。限られたカリキュラムに何を詰め込むかの論争より、今は学校教育がいかに荒廃しているか、日本の社会がいかに壊れかけているかの認識をまず共有することが大事だろう。

2006年9 月27日 (水)

落語で教育改革

「教育再生には笑いと伝統文化の落語が一番」という理由から仲間2人と3人で「教育再生落語研究会」なるものを作った手始めに24日の日曜日、川崎の「大師寄席」を覗いてきた。北区浮間の地元に住んでいて知り合いの三遊亭小円朝さん(37)が出るからだ。

 京急川崎大師前駅から「ごりやく通り」を歩いて約7分。川中島神明神社まで来ると境内に「大師寄席」の赤いノボリが見えた。木戸銭2000円を払って社務所に入ると赤い絨毯を敷いた20畳ほどの座敷が会場だった。

 深紅の布で作られた高座のうえで小円朝さんが人なつっこい表情で話し始めた。前座、二つ目と終わっていよいよの真打登場。絨毯の上に14,5人。後ろのパイプ椅子に同じほどの客。「今日は客に乗せられた」と小円朝さんが後で語ったように客はみんなレベルの高い聞き上手。なにしろ「大師寄席」は30年もの歴史を誇る地元の手作り寄席だった。

実行委員会の人が青い表紙の30周年記念誌をくれた。A4判30ページほどの裏表印刷の手作り。05年6月12日の第125回寄席が30周年で、その日は柳家小三治師匠を迎えて盛大にやったそうだ。記念誌によると第1回(1976年2月28日)になんと小円朝さんの実父、三遊亭円之助(三代目)さん出演の記録があった。小円朝さんは大師寄せ初出演だが因縁の高座だった。

「そうそう、円之助さんは当時NHKの朝ドラ、なんてったけな、それに職人さんの役で出ていて名が売れてたんだよ。それで旗揚げに協力してもらったってわけ」。大師寄席実行委員会の連絡先になっている自営業、吉田十三次さん(62)は電話口でうれしそうに振り返った。当日は来られなかったが中心メンバー。赤い絨毯は町内会のものであること、とても木戸銭だけでは足りなくて商店街などの協力取り付けに奔走していることなど運営の厳しさも話してくれた。「それにしてもお大師さんのお膝元のような土地柄だからできるんですかね」と聞くと、「いや、落語が好きなやつがいるかどうかだね」との答えが返ってきた。

 肝心の小円朝さんのこの日の出し物はいずれも古典落語の「天狗裁き」と「粗忽長屋」。小円朝さんは古典しかやらないが、中でも「天狗裁き」は客の様子をみるためにやることが多いとか。長屋でうたた寝している亭主が嬉しそうな顔をしているので夢の中身を知りたがった女房が「私に言えないのかい」と迫る。しかし夢なぞ見ていない亭主と大喧嘩に。止めに入った隣人ともけんか、仲裁に入った大家も夢を知りたがって「親も同然のこの私に」と怒ってお奉行さまに訴える始末。その遠山の金さんまでが夢を知りたがり、そこへ高尾の大天狗がやってきて男をかっさらい、夢の中身を言えと迫るこんなナンセンスな話がテンポよくきりきりと進んで客は大笑い。

教育改革との関連は今ひとつにしても、笑うことが精神衛生にいいこと、伝統文化を守っていくには苦労がいることを学んだ寄席見物だった。

2006年9 月24日 (日)

教頭さんはつらいね;希望降格、5年で3倍

01年の頃から全国の教育委員会で広まり始めた学校管理職の希望降任制度を利用する校長、教頭が05年度は71人に上った。01年度の26人に比べ3倍近くも増えている(読売24日朝刊2面)。希望降任制度を導入しているのは全国で50教育委員会。文科省のまとめでは71人のうち教頭が62人を占めた。地域別では東京都18人、北九州市7人、神奈川県、大阪府、広島県各4人などとなっている。理由は「健康上の問題」(34人)、「職務上の問題」(16人)についで家族の介護など「家庭の事情」(5人)。残る16人は「その他」分類になっている。健康上と職務上の違いについて文科省は「職務上の問題で精神的に追い詰められ、健康を害した例もあり区別しづらい」と説明している。

 <谷口のコメント>

◎ベテラン教諭にふさわしいポストできないか◎
  知り合いの校長さんにも希望降格を申しでようか、悩んでいる人が何人かいた。年々厳しさを増す学校経営のプレッシャーに耐え切れないという。日の丸・君が代問題での教職員とのあつれきが影を落しているケースも見られた。しかし、一番の理由は「現場は楽しかった。また戻りたい」という思いのように受取れた。

「せっかく目標にしてきた校長になったのだから理想の学校づくりに頑張ったら」と励ましたが、「新聞記者はいいね」とよく言われたものだ。「編集委員のような制度が学校にもないかな」という人もいた。編集委員は取材・執筆に関して自主判断が認められたベテラン記者の呼称だ。そんなに理想的に機能している新聞社はないと思うが、編集委員とライン管理職の交流人事も盛んになってきている。記者も教師も一種の職人稼業だから教師にも「教諭委員」的なポストがあってもいいかもしれない。管理職登用試験を希望する先生が減っているとも聞いた。学校人事の複線化が必要だ。

2006年9 月22日 (金)

 都教委に違憲判決;日の丸・君が代強制

各紙22日朝刊が1面トップで報じたところによると、東京地裁は21日、卒業式や入学式などで日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するように義務付けた都教委通達は違憲・違法だとする判決を出した。都立学校の教員らが義務のないことの確認などを求めて訴えていた。判決はまず君が代・日の丸が軍国主義を支えたのは歴史の事実であり、今も国民全員に等しく受け入れられているわけではないとの認識を示し「宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」と断定した。だから、斉唱と掲揚について通達でこと細かく定めて、教職員が従わないと処分するやり口は「不当な教育支配」に当り(教育基本法10条違)、思想・良心の自由を保障する憲法に反する、と断じた。これに対して読売社説は判決の主要部分での認識全てに疑問を呈して反対の論陣を張り、朝日社説は高く評価するとの姿勢を明確にした。

<谷口のコメント>

◎教育現場を不毛の対立に陥らせるな◎

 石原都政になってから始まった都教委の恐怖行政は明らかにやりすぎだった。問題が日の丸・君が代という極めてナイーブなテーマであるだけに、教師の内心の自由を無視して「クビにするぞ」と脅しをかけ続けるやり口はあまりに野蛮だ。その意味で東京地裁判決は常識的なことを言っているに過ぎない。ただ、一番の対立点として残るのが日の丸・君が代に対する評価の違いだろう。読売社説は「各種世論調査を見ても、すでに国民の間に定着し、大多数の支持を得ている」と言うが、歴史観や価値観は多数決で決まるものではあるまい。しかも、教育はすぐれて心にかかわる営みだ。

危険なのは歴史観・価値観の対立がイデオロギー対立の色彩を帯び、両派勢力の争いに転化することだ。教育現場は長い間この争いで乱されてきた。都教委の強硬姿勢の裏にもこの対立の陰が濃厚だ。臨時国会の焦点となる教育基本法改正論議でもこの部分がクローズアップされるだろう。しかし、もう教育現場に左右対立を持ち込む時代ではあるまい。国旗・国歌に対する共通の新しい国民感情の広まり、深まりに向けて、教育現場が勇気ある取り組みを展開できる静かな環境作りのきっかけにこの判決が生かされればいいのだが。

2006年9 月18日 (月)

子どもって多面体!

9月の初め、夫の会社の千葉の保養所に泊まりに行った。以前社宅に住んでいたとき一緒だった全6世帯との合宿である。今は各家庭とも社宅を出てそれぞれの場所で暮らしている。この合宿は毎年の恒例行事で、始まった当時はみな新婚だったが、今では各世帯に子どもが1人ないし2人。ここ2、3年は、我が家も含め赤ちゃんを抱える家庭が多かったので、合宿は中止されていた。だから今回は久しぶり、しかも全員揃っての、にぎやかな合宿となった。

大人12人、子ども9人の総勢21名が一戸の大きなコテージに泊まって、夕飯は庭でバーベキュー。子どもは7歳から2歳の間に9人だから、コテージは保育園状態。子どもたちはみなほぼ初対面なのに、挨拶するより前に一緒に遊び始めた。子どもたちの垣根のなさは本当にうらやましい。

7歳のYちゃんは、赤ちゃんのとき、かなりのアトピーだったので、その後を心配していたが、だいぶよくなっていて安心した。見た目はとても引っ込み思案、でもすごい元気に走り回って飛び回って、大声でキャーキャー言いながら転げまわって笑っている。

「学校では本当におとなしくて、教室の隅っこでじーっとしている目立たない子なんよ」とお母さん。お母さんは、この日のYちゃんの姿にとても驚いていた。「この子、手はなしてくれないの~」と言いながらもずっとタラコと手をつないでよく遊んでくれた。夜は、男の子3人とお風呂にもキャッキャッ言って入っていた。

子どもって多面体! 下の子たちに「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と呼ばれ何の垣根もなく仲良く遊べたのがうれしかったからなのか、分からないけれど、ちょっとしたきっかけで、思わぬ一面があふれ出てくる、爆発する。この子はこういう子、という見方は決してするもんじゃないな……とつくづく勉強になった。

我が家のタラコは……というと、こういう大人数と一緒に遊ぶ経験があまりないので、最初は柄にもなく気おされていたようでおとなしかったが、だんだん本領発揮し、ソファから飛び降りるわベッドから転げ落ちるわで大暴れ。「心臓の病気って聞いていたけど…元気というか荒っぽいね」と苦笑される一幕も!

が、皆で遊んでいてもふいに私のところへやってきて、まとわりついたり、抱っこをせがんだり、「ママもいっしょに遊ぼ」と手を引っぱったりで、周りの子に比べてかなりのママっ子であることも分かった。

他のお父さんお母さんも、それぞれに我が子の意外な一面や思いがけない姿を見たらしい。久しぶりに再開されたこの合宿は、それぞれの家族に新鮮な風を送り込んだみたい。とてもいい二日間だった。

2006年9 月16日 (土)

セーラー服

最上川の支流に沿って土手をいくら歩いても目指すビジネスホテルは見えてこない。少し小雨模様にもなってきた。橋のたもとにセーラー服姿の少女が自転車を引いて信号待ちしているのが見えた。ちょっと迷ったが思い切って声をかけた。

 心配をよそに少女ははきはきと道筋を教えてくれた。地元中学校3年生の名札が胸に付いている。土曜日だが高校受験を控えて補習でもあったのだろうか。礼を言って立ち去ろうとしたら後ろから少女の声が追ってきた。「お送りしましょうか?」。

 「えっ?」と耳を疑った。土手の上、下に二股に分かれる道が分かりにくいので心配になったのだと少女は言う。リュックを背負って両手にコンビニのビニール袋をぶら下げた見知らぬオッサンになんて親切な娘なのだろう。東京ではあり得ないことだ。つい先日も自宅近くで、野球のユニホームを着て背中にバットを斜めに背負ったチビ坊主が可愛くて「どこへ行くの?」と声をかけたら一目散に逃げられたばかりだ。坊主が悪いのではない。先生に「道で知らない人とは口を聞いてはいけない」と教えられているのだから仕方がない。

 せっかくのご親切だし、歩きながら少し話したいな、と思ったが方向も違うようだし丁寧に断った。はにかんだ少女のほっぺがほんのりとりんご色に染まった。河原で家族連れが芋煮会に興じている。土手を行くこっちの胸もぽかぽかと温かかった。

2006年9 月14日 (木)

小学生の対教師暴力が4割も急増:05年度文科省調査

 14日各紙朝刊が一斉に1面で報じた。同省の調査によると05年度1年間に全国の公立小学校で2018件のの校内暴力事件が発生、そのうち464件が教師に振るわれた暴力だった。対教師暴力は前年度に比べ38%も急増、小学校の校内暴力全体も同6.8%増で初めて2000件を突破した。中学校は2万3115件、高校は5150件と横ばい状態。

 

 各紙は社会面で荒廃する教室の実態を報じた。<おびえる先生 悩む日々><イスけって歯向かう6年女児/5年男児「教育委員会に言うぞ>(読売)、<崩壊連鎖 底なし>

<女性教師に20発けり「くそばばあ」「死ね、死ね>(毎日)など目を疑う見出しが並ぶ。背景について「成果主義でひずみ」(毎日)、「学校生活に余裕足りず」(読売)、「親の影響も一因」(朝日)などの指揮者談話が掲載されている。

 朝日1面によると文科省は「はっきりとした原因は分からないが、けんかの仲裁に入った教師に逆上し、矛先を向けるケースが多いようだ。学級担任制で、担任1人に任せきりになるため、問題が放置されやすい状況がある」と分析している。

<谷口のコメント>

 まことにコメントしにくい問題だ。現代の教育が抱える象徴的な病理現象であり、しかも何十年も言い続けられてきた危機である。何が原因で何が対策なのか自分でも分からない。文科省も学校関係者も正直そんな気持ちだろう。その中で「社会構造のレベルでの問題解決が求められている」というある識者の意見は当面の解決策には全くならないが深く同意できるものがある。そのレベルで言えば、大人が理想主義や正義感を失ってしまったところに根本的な原因があるのではないか。子どもたちに足元を見透かされているから家庭でも学校でも指導がきちんと子どもの心に届かない。つまり、ここでも個々人の集大成である「国家」の品格というものが問われているように思えてならない。