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2006年6 月17日 (土)

どう考える?ゼロトレランス;識者討論

  文科省が導入の方向を打ち出した生徒指導のゼロトレランス(寛容度ゼロ)方式について朝日17日朝刊15面は<私の視点>で3人の識者の意見を紹介した。同紙は紙上討論の前提として、国立教育政策研究所が5月、「生徒指導体制の在り方についての調査研究」報告書をまとめ、文科省は6月、この報告書に関する通知書を出し、地教委にゼロトレランス方式を参考にして指導方法の確立に努めることなどを求めた経緯を紹介している。

  賛否は2対1の構成。国研報告書を支える調査を担ったチームのキャップ、明石要一・千葉大教育学部長は当然、賛成派。ゼロトレランスとは端的に言えば「出席停止の有効活用」という明石氏は新たな生徒指導のあり方の本義は「排除」でなく「とことん面倒を見る」ということだと主張。同氏が見聞きした現状はむしろ事なかれ主義による排除だと指摘する。米国教育に詳しい加藤十八・中京女子大名誉教授は「わが国ではいまだに、米国で失敗した非管理教育が主流」と嘆き、ゼロトレランスに切り替えた米国は学校の建て直しに成功したことを紹介。「生徒を放り出しているのは米国ではなく日本だ」とゼロトレランス概念の導入を主張している。

  一方、中退者を受け入れる北海道の私立高・北星学園余市高で教え、ヤンキー先生として知られる元高校教諭で現横浜市教育委員の義家弘介氏は「教育は5年後とか長いスパンで結果が出るもの。寛容さを失ってどうするのか」と反論する。「権威でなく、情熱と愛情を持った教師集団の力で導くのが教育なのに、こうした教師集団を作らないままルールだけを厳格にしようとしている。これでは教育の敗北だ」という点に同氏の主張は凝縮されている。

<コメント>
  3人の識者の意見を読んでいて、教育をする力の源は組織なのか人間なのかという根本的な考え方の違いがあるように思えた。理想的には当然ながら教育は先生個人の熱意と理想で推進されるべきだろう。しかし、確かに現実は個人の力を超えているのではないか。

  20年近くも前だが、問題校の中学で教えている若い女性教師が日教組の教研集会で「身の危険を覚える」と語ったのが忘れられない。取材に訪れたニューヨーク市のハーレム地区にある中学校ではピストル携帯の巡視員がパトロールしていた。

 このような一昔前のブラックボードジャングル的な光景は見られないにしても1人の不心得な生徒のために授業が成り立たない状況がまん延しているようだ。ただ、ベルトコンベアで製品を選り分けるように、不良品を別のコンベアに載せかえて済む話だろうか。不良品はついに先生の熱と理想に出会うことなく成長の機会を逃す心配はないか。

 ゼロトレランスについては5月23日付けの本欄で国研報告書について紹介したが、その後の各紙のフォローが足りないように思う。導入するかどうかの判断は各地教委に任せられるというのだから、新聞は各地それぞれの取り組み情報を読者に提供してもらいた。

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