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2008年8 月21日 (木)

タラコの心臓 ~ひとつの決心

10月、タラコの心臓の精密検査をすることになった。

4歳をすぎても、穴の状態に進展が見られないので、そろそろ検査して手術の要不要を判断してもいい頃ではある・・・と主治医に言われていた。

春の検診で「この次の検診までに、お父さんとも話してきてください」と言われ、その2ヶ月間はどうしたらいいのか考えない日はなかった。
とにかく、タラコが幼稚園に入って、周りの子と比べてどうかをまずは見てみよう・・・と考え続けた。

タラコが幼稚園から帰るときに、毎日のように泣いたりグズったり怒ったりするのは何故か・・・母親の顔をみて、精一杯頑張っている緊張が切れて感情があふれるのせいなのか、帰ってきてへたり込む姿を見ると肉体的ハンディでどうしようもなく疲れるのか。暑くなってくると人一倍汗まみれなのはやはり心臓のせいなのか・・・・などなど、いろんな思いに日々、気持ちの行き場がなかった。

昨年も感じたことだが、やはりタラコの汗のかき方はやっぱり半端じゃない。さほど暑くもないのに、寝ているとき頭中に玉のような汗をかく。拭いても拭いても噴き出している。夜中も気がつくとガーゼで拭いてやる。そのたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
冷房がガンガンに効いた部屋でも額に汗かいて頬をつたって落ちてくることもある。ただ汗をかいているだけなのに、スーパーでも「あら、プールに行ってきたの?」と声を掛けられるほど、髪から滴る。

こんな状況を見ると、これだけ汗をかくって肉体的に相当負担だろうと思わざるを得ない。自分で考えてみても、滴るほど汗をかくなんて相当な運動量のときだもの。

自然に穴がふさがるかもしれない・・・・ほんのわずかな可能性にかけて、これだけの負担をさせていいのだろうか、と思うようになった。こんなにお転婆で活発な子だけに、思うだけ動ける肉体にしてやることのほうがいいのではないか。

カテーテル検査を受けることにした。カテーテル検査を受けるということは、「とりあえずやるだけ」ではない。検査結果次第では手術へコマを進める、つまり「検査の先」への覚悟がなければ受けられない。その覚悟をした。

検査入院の日程が決まり、タラコに「入院するよ」と説明した。「やだ!やだ!こわい!!」と泣かれた。「いつもより時間をかけて調べるだけだから」と言い、どんなことをやるかは説明しなかった。「わかった。わたしがんばる」と言うので、涙がでてきた。

今日も知人に「秋に検査入院することになって・・」と話したら、タラコが横から「わたし、ほんとうは入院いやなんだけどね、入院しなきゃいけないの」。

涙がこみ上げてきた。でも私が涙をみせてはならない。

タラコの心をしっかり守ってやらなきゃならない秋になる。

2008年8 月19日 (火)

校長・教頭任用標準試験始まる

  透明性の確保が課題
 鹿児島県で18日、校長、教頭になるための任用標準試験が始まり、この日は478人が小論文試験に臨んだ(毎日・鹿児島版)。19、20日に面接があり、10月中旬に結果が発表される。大分県教委の教員人事をめぐる汚職事件が教育界に大きな衝撃を与える中での試験。鹿児島県教委職員課は「筆記試験は氏名を記さず、面接試験はPTAや民間企業など外部からも面接官を入れている。透明性は確保しており、不正は考えられない」としている。
谷口のコメント
 改まるか?「先生の世界も金・コネ次第」
 この時期、各地の都道府県教委で一斉に管理職試験が行われる。先生の採用や教頭・校長への管理職登用などの教員人事が不正に左右されているという疑惑は大昔からつき物だった。大分の例はそれをはからずも実証して見せたわけで、教育界に与えた損失はあまりにも大きい。誰もが「氷山の一角」と思ったに違いない。点数を改ざんするという荒業がまかり通るようでは手の打ちようがないが、背景に教員の世界にコネが蔓延しているという実態があるのは間違いない。それが点数改ざんを許す良心の麻痺につながっていく。コネが一概に悪いとは言い切れない、という意見も分からないではないが、やはりここは一律コネ追放でいかなくては教育界の名誉回復はないだろう。
  

2008年8 月18日 (月)

「反省」続き・最新プロフイル

梶原先生

                                谷口

東北へ旅に出ていましたので返事が遅くなりました。16日は飛行機が午後1時過ぎ着ですので、午後3時過ぎでしたか、いなほ館の集合から参加させていただきます。つまり△ということですかね。当日は宿泊希望です。

 プロフイル送ります。

 

谷口 泰三(たにぐち・たいぞう) 

(自己紹介)

 1946年生まれ、福井県出身、東京都北区在住。毎日新聞社を06年春に定年退社してフリーを名乗っていますが、稼業の実態は作文の先生です。東京、名古屋の短大などで教えています。そのほか、文字・文章がらみの仕事をボランティアも含めていくつかやっています。学校書道の普及団体である日本書写能力検定委員会の顧問、古巣の新聞社がやっている毎日パソコン入力コンクール運営顧問、新聞教育に関心がある元教師や記者が結成した新聞教育支援センターのアドバイザーなどです。最近の共著「現場から見た新聞学・改訂版」(今秋、学文社から発売)ではNIEの章を担当しました。執筆を通じて、新聞界がもっとNIEに本腰を入れないと新聞の将来が危ういだけでなく、新聞が日本の民主社会の発展に寄与できない、という認識を新たにしました。

 新聞社時代は教育分野を長く担当しましたが、大半は行政官庁でした。教育委員準公選制発足時の東京・中野区教委、革新から保守中道都政に変わった直後の都教委、荒れる学校に揺れる旧文部省を連続で7年間担当したのですが、上級官庁に行くほど「教育」が希薄になり、「行政」の側面が強くなるのを痛感しました。自身も現場感覚に乏しい教育記者、になってしまったという反省から、現場から課題を発掘することをフリー活動の目標にしていますが、あまり取り組めていないのが実情です。

(テーマについて)

 「生きる力・総合的な学習」路線が打ち出されたとき、「文部省の久々の快挙だ」と新聞教育関係の先生方と喜び合ったのを昨日のように思い出します。社会の動きと直結して自主的な判断能力を育成しようとする新聞教育はまさに「生きる力」路線そのものだという思いからでした。曲折を経ながらも新学習指導要領でこの路線がなんとか生き残ったことは喜ばしい限りです。新聞教育を新要領で重視し始めたことも評価しています。教育行政は失敗も多々繰り返してきましたが、「生きる力」という学力観は支持していきたいと思います。

2008年8 月17日 (日)

鹿児島での反省

霧島シンポに参加して

 お盆休みに鹿児島で1泊2日で開かれた「第9回未来教育セミナー」霧島プロジェクトという集まりに参加した。実行委員長である鹿児島の私立高校の先生、梶原末廣さんに第1回から誘われていたのだがなかなか参加する機会がなかった。

 参加者約60人のほとんどが九州一体の学校の先生たち。メーンはシンポジュウム「生きる力と学力」(新学習指導要領のねらい)。田中孝一・文部科学省主任視学官の基調提案に続いて同氏がコーディネーターになってシンポが進められ、自分もシンポジストとして参加した。  

 

その内容はいずれ報告するとして、実に温かくて気持ちの良い集まりだった。学校の先生たちのいい部分ばかりを持ち合わせた人たちのように見えた。知的で、理想を持ち合わせ、真実味があって、控えめ。そして、いろいろ悩みを抱えている・・・。

 ところで、この集まりで心配していたことがやはり実際にあった。「ブログが更新されていませんね」という指摘である。というのは、シンポジストとしてプロフイルを出したのだが、梶原先生がよかれと思われたのか、資料にこの教育タイムズも付け加えてくださった。もっとも、いまどきは検索すればすぐわかることではあろうが、何人かにがっかりという感じで言われて恐縮した。

 これまでも数少ない読者・・・先輩や友人から三日坊主と非難されていたのだが、看板出している以上はちゃんと更新しなくてはいけないと反省した。

2008年8 月10日 (日)

政府専用機を見送りながら ~今年、広島にて

7月末から、夫の両親が住む広島・呉へ帰省した。
タラコが生まれて初めての広島行き。実は、父はタラコ4歳にして初対面なのだ。
人見知りしないタラコ、初めっから、まるでもう何度も会っているかのようななつっこさで、1週間したらすっかり「広島の子」となっていた。

私は5年ぶりの広島だ。8月のこの時期、平和公園は6日の平和式典に向けて準備が進められている。5年前に訪れたのもちょうどこの時期だった。
今回も平和公園と原爆資料館に行きたかったが、呉から広島まで足を延ばす余裕はなかった。
町の掲示板には公民館での「原爆と戦争展」のチラシ。図書館の入り口近くに並べられた戦争や原爆関連の本。静かで穏やかな田舎町だけど、たしかにここはヒロシマなんだな、と思う。

私たちが東京へ帰る8月6日は広島原爆の日。朝、テレビで式典を見た。
毎年、毅然と平和宣言を発する秋葉市長、懸命に平和を訴える子ども代表が印象的だ。それに比べ、去年までの小泉首相の態度は原稿棒読みで耐え難いものがあった。今年の福田首相は何度も原稿から顔を上げようとしているあたり、少しほっとした。

式典を見終わって、広島空港へ向かった。早く着いたので、離着陸が見えるレストランでお茶をしていた。
母が「あら、あれはどこの会社の飛行機かしら?」というので外へ目をやると、垂直尾翼に日の丸。
「あ、あれは政府専用機ですよ。福田さんたちを乗せてもう東京へ帰るんですね」・・・と言い終わらないうちに、空の彼方へ小さくなっていった。

元安川の橋の上から平和公園を見ると、整然と整備されていて、かつて火の海となり、焼け尽くされた人々のどよめきがあったのか信じられない気になる。
しかし、左を見ると原爆ドームがそれを証言しており、かなりの高齢者の方々が酷暑にも関わらずつぎつぎに訪れ祈りを捧げている姿を見ると、たしかにあったことなのだ、と思い知る。

4日間で広島、北京、長崎・・・福田首相も激務だ。問題山積の国家。やるべきことがありすぎて、式典が終わったらサッサと帰るのも無理もない。
だけど、飛行機が飛び立ったこの時もまだ平和公園は、あの日に思いを馳せる人々、忘れまいとする人々であふれているだろう。

どうか、その人たちの苦しみや願いは置き去りにしないでほしい。全ての仕事は平和のためにあるのだから。