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2008年7 月31日 (木)

「私」ってなぜ?

タラコ4歳。自分のことを「私」と呼ぶ。
「私、○○したよ」「それ、私の!」などというように。
いつからそうだったかハッキリ覚えていないけれど、少なくとも3歳になったときには、もう「私」だった。

当たり前のように聞き入れていたけど、ある時、他の子のお母さんから「タラちゃんて自分のこと“私”って言うんだね!」と驚かれて、珍しいことに気づいた。
そういえば確かに、他の子は自分のことを名前で呼んでいるなぁ、ウチは自分のことあんまり「タラコね・・・」とか「タラちゃんね・・・」とか言わないなぁ、と。

その後も何人かのお母さんからこのことを指摘された。
もちろん自分のことを「タラコ」と呼ぶこともあるけど、「ちゃん」づけはしないなぁ。まぁ、大抵は「私」だ、やはり。

で、昨日も別のママ友に指摘され「おませさんなんだね」と言われた。それがミョーに引っかかった。
別に気分を害したわけじゃない。ハッとしたのだ。

「私」は「おませさん」だからなのか??? 
そもそも3,4歳の幼児が「私」を使うことは珍しいことなのか?? 
そういえば男の子も自分のことを名前で呼ぶのか??・・・・考えてみると、指摘したママはみんな女の子のママ。そもそも男の子のママであまり親しい人がいないんだけど。

「私」は精神発達的なことなのか、それとも性格的なことなのか、あるいは言語習得過程において「私」という言葉が印象的だったなどという心理的なことなのか・・・・何か学問で解明されていないのだろうか???

・・・・なんて考え始めたら、気になって気になってしょうがない。
私がタラコに対して話すとき、自分のことを「ママは・・・」と言わないで「私は・・・」と言うことが多いのかなぁ。やっぱり赤ん坊のときから自己主張が強かったからかなぁ。
意識し始めると、何が何だかよく分からなくなってきた。

どなたかそのワケをご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください!

2008年7 月13日 (日)

『八日目の蝉』を読んで

新聞配達のバイクの音でハッと我に返った。窓の外は明るくなっていた。最初のページをめくったのが夜中の1時。一気に引き込まれて読み終えてしまった。角田光代の『八日目の蝉』(中央公論新社)。

物語は、希和子が不倫相手の留守宅から赤ちゃんを連れ去るところから始まる。希和子は相手の子どもを堕胎した経験を持ち、子どもの産めない体になっていた。赤ちゃんに、かつて自分の子に付けようと思っていた「薫」と名づけ、薫を連れて西へ逃げる日々が始まる。声を掛けてくれた謎の老女の家に身を寄せたり、外界と隔絶された怪しげな宗教団体の合宿所に入所したり、そして小豆島へ・・・。彼女の薫との日々は、薫が4歳2ヶ月近くまで続く。とうとう警察の手が及ぶ。ここまでが第1章。

第2章は、大学生になった「薫」の視点に移る。誘拐犯に育てられた過去、そして本当の家族とのゆがんだ仲を心に重く抱えている。そして、自分も妻子ある男性と恋愛していることが、誘拐した女と同じ運命をなぞっている不安に襲われている。

薫が4歳まで育つ描写が、タラコと重なる。自分の運命を全く知らずに目の前の女を母と思って、無邪気に環境を受け入れて生きている。小豆島のまぶしい情景が、この年頃の本当にキラキラした感じと重なり合う。このかりそめの母子の幸せが一日でも長く続くことをついつい祈ってしまう。

そして、不倫相手の妻。かつて希和子を罵倒した激しい女性。娘が手元に帰ってきたあとも、うまく接することができず、過去と現在に苦しめらている。彼女の狂いそうな痛みも何だか分かるような気がするのだ。

だって、タラコがスーパーでちょっと迷子になったって私は気が狂う(タラコは3秒あればどっかに消えてしまう)。それが家から連れ去られ、原因が自分たち夫婦にあり、4歳になっていきなり戻ってきても、その女に育てられた匂いがするのだ。共有している記憶もない。それは、どうやって受け入れて良いのかわからないし、その苦しみから逃げようと堕落していくのも分かる。
どの登場人物にも心ひきつけられて、ページをめくる手が止められない。

そして、この本を読み終えて、物語の本筋とは外れるんだろうけど、私の心に引っかかったのは、大人になった薫の記憶の中に、希和子の顔がないことだ。希和子の顔の記憶は、新聞記事になった犯人の顔写真となってしまったこと。4歳のその日まで、希和子は薫を献身的に育てている。それでもやはり幼子の記憶とは、はかないものなんだな・・・・と。
こんなにタラコと過ごしていても、もしここでタラコと別れることがあったら、私のことは忘れられてしまうんだな・・・って思ったら、涙が出てきた。

でも、自分の過去を忌まわしく思う薫の心の中にも、小豆島の光景は美しく残っていた。物語の最後に薫はこれからの一歩を踏み出すために、その景色を見に小豆島へと向かう。
私の顔は忘れられても、私が与えてあげた経験はきっとタラコの心に残る。そんなふうに思ったら、ちょっとは救われる。心に忘れられない宝物が残ったらいい。それがいつかタラコの力になることがあるかもしれない。それは、きっと顔を覚えておいてもらうことよりも、母親にとっては喜びなんだろう。