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2007年3 月11日 (日)

学校新聞王国・山形はなぜ生まれたか

  その年、山形県庄内地方は猛烈な残暑だったが大会も熱気にあふれていた。1999年8月末、鶴岡市内で開かれた全国新聞教育研究協議会(全新研)年次大会。全新研と全国小・中学校・PTA新聞コンクールを共催している毎日新聞から参加した私は、いつもの全新研の集まりと違う様子に驚いた。若手の先生方の姿がずいぶんと目立つのだ。何十人もの若い先生が規律よく、暑さをものともせず運営に汗を流している。
「これが山形の強さなんですよ」。大会で12代全新研会長に選ばれたばかりの井上英昭・東京都町田市立町田第一中校長(当時)がうなった。若手が少ない東京ではみられない熱気あふれる情景がそうさせたのか、日頃クールな井上がインタビューに答え、熱い調子で「学校新聞は学校の公器だと思うのです」と何度も「公器」を強調したのが印象的だった。その様子は同年8月24日毎日朝刊「ひと」欄にも残っている。

  その若手の群れの中に、30代半ばながらコンクールですでに3度にわたり内閣総理大臣賞を獲得し全国に名がとどろく出嶋睦子教諭の姿もあった。しかし、直接ことばを交わしたのは06年6月、やはり鶴岡市の湯ノ沢温泉で開かれた全新研OB組織「パピルス」総会が初めてだった。
  「全新研はもっと書く教育に力をいれるべし」。お客の身を忘れて全新研を叱咤激励するスピーチをした私は、懇親会の場で地元からあいさつに見えられた若手、中堅の先生方をつかまえては「学校新聞王国・山形の秘密はどこにあるか」をぶった。「学校新聞王国は風土がつくった。風土は人と歴史がつくるものだ」と、教えたかったのである。前年とその年の2年連続で通算5度目の内閣総理大臣賞に選ばれた酒田市立平田中学校「平中タイムス」顧問、出嶋も被害者の1人だったが、その後「平中タイムス」を送ってくれるようになり、私は今も生き続ける学校新聞王国の息吹に直接接する機会を持つようになった。

  ところで風土の話。
「コンクール半世紀の軌跡と展望 1951-2000」という冊子が手元にある。毎日新聞学生新聞本部(現・「教育と新聞」推進本部)と全新研で01年3月に刊行した。編集に当たった私が一番力を注いだのは「新聞づくりの風土 庄内ルポ」だった。編集委員の横山健次郎・13代全新研会長と小川正典・毎日こども環境・文化研究所事務局長(当時)が特派員として現地取材に入った。
ナゾ解きに行き暮れた小川から概略の報告を聞いて、私は「その男を徹底的に取材せよ」と指示した。ルポは冒頭でこう描いている。
 「猛暑の庄内平野の取材行で2人はある男の存在の大きさと、その情熱を発展させた教育風土の厚みを肌で確認することになった。その男とは鶴岡市立朝暘第三小に教諭、教頭、校長と3度かかわった新聞の鬼・石田雄である」。
 石田は1953年、山形大学教育学部第1回卒業生として藤島小学校に赴任する。新米の石田を待っていた担当が学校新聞つくりだった。当時、庄内地方の小学校では校務分掌に学校新聞が位置付けられているところが多かったのだ。GHQ(連合国軍総司令部)主導で押し進められた戦後の教育民主化の中で「新聞づくり」は太い柱だった。「新採で文句も言えないし、生田先生(当時の学年主任の生田謹吾、後に鶴岡市教育長)が一緒にと言うなら大丈夫かな」と新聞教育の道に入ったと石田は特派員に語っている。

 その後、新聞教育の面白さにのめりこんでいった石田は多くの後輩をこの道に引き込んでいった。特に縁が深かった朝暘第三小は「庄内全体の養成所」と言われた。三小で新聞教育を学んだ先生たちが異動先でも新聞教育を活発に展開したのである。こうして石田らが立ち上げた山形県新聞教育研究協議会は全新研の中でも異彩を放ち続けるようになったのである。

 「王国の秘密」の歴史を簡潔に言うと以上のようなストーリーになるのだが、「今年度(06年度)のコンクールは文部科学大臣賞でした」と連絡をくれた平中タイムス顧問の出嶋に改めて聞いてみた。「この道に入るきっかけはなんでしたか」。出島の答えは意表を突いた。「新採のときの校務分掌でしたから」。戦後間もなくの教育改革の熱気が「校務分掌」の形で残され続けている?…。先生が忙しすぎるのか、力量、指導力の低下なのか、新聞づくりのような面倒にかかわるのは敬遠しがちな先生が増える中で「校務分掌」という言葉はいかにも新鮮だ。これも風土がなせることかもしれないと感じた。

 毎月発行されている「平中タイムス」のことは、このブログで<紙は石なり>(06年6月30日)<「いじめある」4割――衝撃の調査結果に全校が立ち上がる;酒田市立平田中>(07年2月13日)の2回取り上げた。特に印象的だった記事は同タイムスが昨年行ったいじめ撲滅キャンペーンだ。同紙のアンケートに同中生徒の約4割が「周囲にいじめがある」と回答したのは衝撃的だったが、それを真正面から取り上げ、キャンペーンに乗り出した編集部の骨太さに感動した。中学生らしい正義感と真摯な理想主義が同紙の特色である。

  さらに、感心したのは学校当局がこの記事を受けて「いじめを考える」時間を設けたことだ。新聞部のインタビューを受けた校長先生は「驚きました。でも正直に答えてくれて良かったです」と率直に回答。「まず誰かに話してほしい」と訴えている。平中タイムスに最大限の敬意を表した言葉として、きっと子どもたちの心に残るだろう。
  学校新聞が「公器」として機能している象徴的なケースだろう。学校新聞王国・山形の伝統が人を得て連綿とした風土を培っていくよう期待したい。(敬称略)

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