« 体育の家庭教師が人気 | メイン | 「教育基本法」先送り »

2006年5 月30日 (火)

驟雨に思う環境教育

 今日も終日、家で調べ物。夕刻に近くなって空が掻き曇り、雷鳴がとどろく。バケツをひっくり返したような雨に慌てて洗濯物を取り込む。留守番も手馴れたものだ。ものの15分か20分すると驟雨はウソのように上がり、西日が夕空を赤く染めた。このところ毎日この繰り返しだ。まるで日本が熱帯の気候になってしまったような情景である。やはり気候が少しおかしくなっているのだろうか、と思ったりする。

 ところが「地球温暖化はオオカミ少年」説というのが根強い。二酸化炭素など温暖化ガスの影響で気候が変わり、地球の温度が上がって様々な悪影響が出るという科学的予見を信じない人々がいる。気候変動のスケールが大きすぎて、10年や20年の期間で、しかも局地的に見ているだけでは変化は見えない。そしてはっきり見えたときは地球環境が不可逆点(ポイント・オブ・ノーリターン)を通り過ぎた後であり、地球は滅びの道を歩むしかないのだ。その兆候は至る所に現れているのにオオカミ説の人々は見ようとはしない。

 14年前の6月、地球の真裏、リオデジャネイロで開かれた国連環境サミットの取材を思い出す。地球規模での環境変化を初めて国際的に守ろうとする地球温暖化防止条約の採択にアメリカは反対した。それでも条約は結ばれ、条約締結国会議(COP)が生まれた。1997年に京都市で開かれた第3回締約国会議(COP3)で2000年以降の取り組みについて法的な拘束力のある数値目標を定めた京都議定書が採択されて世界の具体的な動きが始まったが、いまだに世界一のエネルギー消費大国のアメリカは埒外にいる。

 地球環境問題は各国の産業と密接に結びついた問題だからやっかいだが、個人のレベルでもなかなか自分自身のことと受け止めにくい。かく言う自分もエネルギー浪費タイプだと反省している。ここは1つ思惑でしか動かない国家や快楽主義の大人は捨てて、地球の未来は子どもたちの純な精神に期待するしかないのではないか。窓をたたく雨を見ながらそんなことを考えた。 

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
https://www.typepad.com/services/trackback/6a0128759be2a2970c0120a699f4d8970b

Listed below are links to weblogs that reference 驟雨に思う環境教育:

コメント

この記事へのコメントは終了しました。