「機械」じゃない
絶対に使ってはならない言葉がある。そう、つくづく思った。
「産む機械」発言のこと。連日メディアからこの言葉が流れてくるたびに、何重にも傷つけられるようで、耐え難かった。収束に向かってホッとしている。
しかし、騒ぎは鎮まっても、胸の中にどうにもおさまらないものがある。だから書くことで何とかならないか、と思った。
言うまでもない。出産は、本当に命を賭けた行為だ。
陣痛がきて、産もうとするまでは、もう人間じゃない。動物だ。一種、狂気だ。
私は難産だった。一生懸命いきんでも、なかなかタラコが出てきてくれなかった。
途中、タラコの心音が下がり始めた。あれほど頑張れと檄を飛ばしていた助産婦さんは、とたん「先生がくるまで、いきまなくていい」と言った。
そのときの恐怖は忘れられない。真っ暗な大海の中に急にポンと一人置き去りにされたようで。何もしないって?どうしたらいいの?赤ちゃん死んじゃうの?それまで何も考えずにただただ突き進んでいた頭に急に冷静さが戻ってきてしまって、何もしないことがこの上なく怖かった。
医師が来て、「帝王切開ができる状況でもないから、大丈夫、頑張りましょう」と言われたあとは、もう何がなんだかよく覚えていない。
タラコは器具で引っ張り出されることになった。
医師二人がかりだった。一人が、突然私のお腹のうえに襲いかかってきて(ように思えた)、ものすごい力で押した。と同時に、もう一人が器具でタラコを引っ張り出した。
その瞬間、自分に何が起こったのかよく分からなかった。
助産婦さんが取り上げたのを見て、「生まれたんですか?」と間抜けな質問をしたほどだ。
産んだあと、私は傷がひどく、まともに歩けなかった。寝返りしても、額に汗がにじむようだった。排泄は引き裂かれるような激痛を伴い、一回に30分かかった。痛みに耐えるのがやっとで、新生児室に赤ちゃんを見に行く気にもなれなかった。2日たつと授乳に行かなくてはならないのだが、授乳室まで歩くのも、3キロの赤ん坊を抱っこするのも、座るのも苦痛以外の何ものでもなかった。病室にもどると泣いてばかりいた。耐え難い痛みと消えない恐怖。
まともに歩けるようになったのは、3ヶ月のちだった。
友人は、出産について「そこに人格はないよね・・・」といった。本当にそのとおりだと思う。そのとき、自分はとにかくいきんで頑張り、あとは医師や助産婦さんにされるがまま、動物だ。
私はそれでも無事生むことができた。
ある人は、妊娠中に、子宮の異常がわかった。
医師に「あなたの命をとるか、赤ちゃんの命をとるか」と言われた。
彼女は、赤ちゃんの命を選択した。
彼女は、赤ちゃんを産むと、ほどなく召された。
女性アナウンサーが、出産後の体調不良が原因で自殺か、・・という報道も、「機械」発言と時期が重なっていて、悲しかった。
テレビで、あるコメンテーターが「体調が悪いといっても、かわいい赤ちゃんがいるのに・・・」といかにも悲痛な表情で言っていた。何を言っているんだ!母子ともに元気で生まれたって、産後の子育ては肉体的にも精神的にも辛い。それを自分の体調がままならなければ、どんなに苦しいことか。しかも彼女は、難病だったという報道である。赤ちゃんがかわいければ何でも乗り越えられるなんて、現実はそんな甘いもんじゃない。もっともらしそうに見えて、なんと思いやりと想像力に乏しい軽々しい発言かと、嫌気がさした。
間違っても、機械じゃない。
自分が持っている以上の、どこからくるのか分からない力を振り絞りきって、全身全霊で命を賭けるんだ。生死をかけるんだ。
「銀河鉄道999」で、主人公の星野鉄郎は永遠の命、機械の体を求めて、999に乗って旅に出る。
でも、彼は、機械の体を手にしたものたちとの出会いや戦いのなかで、人間の生身の血の温かさや、限りある命こそが尊いのだと気がつく。
子どもを産むことは、汗も涙も血も流す。そして、湯気がたつ小さな肉体を絞り出す。あのときの温度感は、まさに「生身の血の温かさ」だと思う。
あの温度を少しでも想像したら、決して、機械ではないと思えるはずだ。人間ならば。
本当に大変な出産だったんですね。
この文章,多くの人に読んでほしい。もちろん,あの大臣にも。
こんな経験をしたなら「産む機械」なんて絶対に言えやしない。すべての女性の尊厳を傷つける言葉です。
危険を伴う,時に死と隣り合わせの「出産」という大事業を成し遂げなければならない女性に対し,世の中の意識はまだまだ女性を理解していない。
女性アナウンサーの件,私も同じように感じました。
投稿情報: オーロラ | 2007/02/19 14:13:52