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2006年7 月 4日 (火)

裏切られた安心

タラコが生まれてから、子どもが被害者となる事件に、ものすごく敏感になった。
「この子がタラコだったら・・・」って思った瞬間、凍るようにぞっとして、それ以上思考を拒否してしまう。目や耳をふさぎたくなる。親になって、感度が格段に変わった。

昨夏、近くの公園でタラコと遊んでいたら、5歳くらい姉と弟の兄弟が人なつっこく話しかけてきた。好きなアニメや虫の話など一生懸命しながら後をくっついてくる。
しばらくして、私がタラコと帰ろうとすると、「家教えて!」と後をついてきた。家まで来ると「中見せて!」。「何っ!?」と思ったものの、ここまでくればトーゼンの展開とも言え、おもちゃで少し遊ばせてからまた公園まで送って帰した。

また、先日、雨上がりの光が丘公園でのこと。草っ原にできた沼のような水溜りでタラコを遊ばせていた。そこへ小3くらいの男の子と女の子が自転車を連れて近づいてきた。彼らも水溜りで遊び始めたものの元気はない。何となくこっちの様子を伺っている気はした。
そのとき! タラコの足がすべって泥だらけのビチョビチョに!!
「あちゃー!」と帰り支度を始めると、その二人はグググッと近づいてきて無言でじーっと見ている。かと言って心配してくれている風でもない。
無言の圧力に「どうしたの?」と聞かされた。
「自転車が壊れて、遠くから運んできたけど、もう手が限界。家まで運んでほしいの」という。「何っ!?」と思ったものの、親は留守だというし、すがるような目に負けた。ベビーカーを彼らに押させて、私は自転車を運んでやった。

この2つの珍事――きっと「“お母さん”への安心感」なのだろうと思った。でなけりゃ、初めて会った人の家に行ったりしないし、泥だらけの子を抱えた明らかに“お取り込み中”の私に自転車運搬を頼むわけないだろう。公園には気ままな散歩人など“お手すき”の人はいくらでもいたんだから。

そう思うと、無条件に無防備に無邪気に安心しきっていた「○○ちゃんのお母さん」に裏切られた子どもたちの「その瞬間」の恐怖、絶望、叫びが聞こえてくるようで、本当にたまらない。秋田の小1男児殺害、少し前では滋賀の送迎園児殺害。

「安心する」って「人の優しさを素直にためらわず信じる」という、とても尊い心だと思うのに、事件が起こるたび、この尊い心を社会からどんどん奪っていくようで本当に耐え難い。「人の善を見るよりも人の悪を見抜け」と言わなくてはならないようで、途方にくれてしまう。親として本当に重い課題を突きつけられている。

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コメント

身近で経験された二つのできごと、ひさしぶりにいいことに出会ったようなほっとうれしい気分になりました。どちらの場合も子供の「選択眼」はなかなか・・・とその生き抜く力のようなものに感じ入ると同時に、ちょっと切ない気持ちも。今の子は家の外での遊びの時間にはかなりの緊張を強いられているんですね、きっと。それにしてもサザエさんのような母親を持ったタラちゃんの幸せをつくづく思います。さまざまなたくさんの場面に出会うこと、つまり(いいも悪いも含めて)経験が多いほど選択眼はみがかれていくのかもしれないと思いました、よその子にも自分の子にも。何もしないおとなしい日々よりずっと疲れることだけどこれからもいろんなことに出会ってください。二つの場合の子供たちの親もきっとその日に子供から報告を聞かされたでしょうね。それが「うれしいこと」として受け継がれていくといいなあとも思う私です。はるか昔の自分の子育てを懐かしく思い出しました。もちろんさまざまな反省をこめて。

公園に行くと、いろんな子どもたちがいるのが楽しいです。やたらタラコのお世話をする子、質問攻めしてくる子、一方的に自分の話をする子、話しかけると逃げちゃう子……。小学生や保育園で遊びに来ている子なんかは、親の前とはまた違う子供同士の中特有のいきいきした顔して遊んだり騒いだりしているのを見ると、こういう笑顔を奪う管理的な社会にはしたくない、とつくづく思います。だって皆本当に「いい顔」しているんですもの。首から下げている防犯ブザーとミスマッチなんですよね…。

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