スラムの子ら
非鉄金属系総合メーカーのフイリピン現地法人の社長をしている大学の友人から現地通信が届いた。日々の生活や感想を不定期で友人に配信している一種のメルマガである。現地工場の従業員3、000人というから大会社だ。その会社経営を通じて彼が綴る通信からはフイリピンの様々な素顔が見えてくる。10日付け不定期通信はスラム街のことを書いている。貧富の差が極端な現地で無事に会社経営を続けられるのは彼の持つ人間的な温かみだと思い、返信にそう書いた。
フイリピンのスラムといえば有名なスモーキ-マウンティンとその周辺に広がるスラム街を1998年に取材したことがある。日本のある宗派の現地NGOのサポートを受けたが、スラム街の内部はとても人間の住む街とは思えないほど壮絶なものだった。ただ、一見の通りすがりに過ぎず深奥まで見たとはとても思っていない。あるいは想像通り暴力が支配する暗黒の街かも知れない。しかし人々の表情からは、生きることの喜びが素直に表現されている街のようにも見えた。
常にくすぶるゴミで煙を吐いているスモーキーマウンティンで生きる子どもたちの純真な笑顔に打たれる訪問者は多いが、自分もその1人だった。ゴミの山をあさって生きている子どもたちに希望を聞くと、例外なく「学校に行きたい」と応えた。しかしわずかに拾うクズ鉄を売るだけではとても学校へ行く余裕はない。それどころか粉塵で胸をやられて多くの子どもが死んでいく。それでも子どもの1人がインタビューに「(ゴミの山をあさる自分たちは)リサイクルを実践しているんだよ」と、冗談交じりに応えた笑顔が忘れられない。
そのときのスモーキーマウンティン訪問は取材以外にも目的があった。東京で自分たちの新聞社が開催予定の国際こども環境会議(2000年5月、東京)にスモーキーマウンテインの子どもたちを招待するプランを秘めての訪問だった。しかし、現地で子どもたちの生活を実際に見、支援の人々と話すうちにそのプランがいかに皮相で残酷なものかに気付いて,迷いながらもとうとう持ち出さなかった。宗派NGOが開く子どもサポート施設で働くうら若いフイリピーノは胸を病んでいた。3年前、止める恋人を振り切ってスモーキーマウンテインに住み着いたのだった。まっすぐに見詰める瞳には偽善を許さない強い光りが宿っていた。
予定通り開いた子ども環境国際会議では中国、韓国など5カ国から子どもを招いた。ソウルを流れる漢江の浄化や北京の空の浄化作戦をアピールする現地の子どもたちを眺めながら、スモーキーマウンティンの子どもたちは何を訴えたろうか、と考えた。何かしゃべらせてやりたかった。それを日本の子どもたちにきちんと受け止めさせたかった、という思いはやはり残っていた。単に先進国に住む人間のおごりだろうか。
そのもどかしい感覚をひさしぶりに彼の現地不定期通信で思い出した。
フイリピンのスラムといえば有名なスモーキ-マウンティンとその周辺に広がるスラム街を1998年に取材したことがある。日本のある宗派の現地NGOのサポートを受けたが、スラム街の内部はとても人間の住む街とは思えないほど壮絶なものだった。ただ、一見の通りすがりに過ぎず深奥まで見たとはとても思っていない。あるいは想像通り暴力が支配する暗黒の街かも知れない。しかし人々の表情からは、生きることの喜びが素直に表現されている街のようにも見えた。
常にくすぶるゴミで煙を吐いているスモーキーマウンティンで生きる子どもたちの純真な笑顔に打たれる訪問者は多いが、自分もその1人だった。ゴミの山をあさって生きている子どもたちに希望を聞くと、例外なく「学校に行きたい」と応えた。しかしわずかに拾うクズ鉄を売るだけではとても学校へ行く余裕はない。それどころか粉塵で胸をやられて多くの子どもが死んでいく。それでも子どもの1人がインタビューに「(ゴミの山をあさる自分たちは)リサイクルを実践しているんだよ」と、冗談交じりに応えた笑顔が忘れられない。
そのときのスモーキーマウンティン訪問は取材以外にも目的があった。東京で自分たちの新聞社が開催予定の国際こども環境会議(2000年5月、東京)にスモーキーマウンテインの子どもたちを招待するプランを秘めての訪問だった。しかし、現地で子どもたちの生活を実際に見、支援の人々と話すうちにそのプランがいかに皮相で残酷なものかに気付いて,迷いながらもとうとう持ち出さなかった。宗派NGOが開く子どもサポート施設で働くうら若いフイリピーノは胸を病んでいた。3年前、止める恋人を振り切ってスモーキーマウンテインに住み着いたのだった。まっすぐに見詰める瞳には偽善を許さない強い光りが宿っていた。
予定通り開いた子ども環境国際会議では中国、韓国など5カ国から子どもを招いた。ソウルを流れる漢江の浄化や北京の空の浄化作戦をアピールする現地の子どもたちを眺めながら、スモーキーマウンティンの子どもたちは何を訴えたろうか、と考えた。何かしゃべらせてやりたかった。それを日本の子どもたちにきちんと受け止めさせたかった、という思いはやはり残っていた。単に先進国に住む人間のおごりだろうか。
そのもどかしい感覚をひさしぶりに彼の現地不定期通信で思い出した。
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