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2006年5 月25日 (木)

教科書から時代時代の「学びの現場」が見えないか

 ジュニアメディア研究会(JM研究会)という勉強会に参加している。毎日のジュニア紙(毎日小学生新聞)を守って行こうという趣旨で社内外の人が加わった小規模の勉強会だ。今日はその会の活動で北区王子の飛鳥山に近い東京書籍付設教科書図書館「東書文書」(東京都北区栄町48の23)を見学した。そこで嘱託をしている藤村恵氏(74)が10年ほど前「教科書こんにちは」という連載を毎小でやっていた縁で実現した勉強会だ。

 同文庫は教科書会社の東京書籍が昭和17年(1936年)に開いたもので、江戸から現在までの教科書、文献類14万冊を集めた教科書の図書館だ。年2回の企画展として「教科書に登場する動物」特集をやっていたが、400年に及ぶ教科書のあれこれを見ているうちに、その教科書を使っていた現場の情景が浮かび上がるような気がした。

 教育記者として教科書はさんざん苦労させられた対象だがそういう気持になったのは初めてだ。当時の取材対象としての教科書は時の政治権力の道具としての存在という位置づけだった。典型的なのが昭和57年(1982年)の教科書検定外交問題である。中学校の歴史教科書の検定で「侵略」を「進出」と書き直させた事例があった。世に有名な「侵略・進出」問題だ。中国・韓国の猛烈な抗議で外交問題に発展し、教科書検定基準に「近隣諸国への配慮」の一項目が加えられて決着した。つい最近、安倍官房長官が「侵略を進出とした事例はなかった」とマスコミ批判を展開した。それに朝日新聞の社説が「実際にあったことだ」と反論していたが、現実には両方とも正しい。真相は「河北(旧満州)への侵略」という記述について「進出」と書き改めさせた検定例はなかったが、同じ年の検定で東南アジアにからむ記述の検定では実際にあった。

 と言われても、何のことだと多くの読者は思うに違いないが、そういう空中戦が自分にとっての教科書問題だった。なぜ空中戦かというと、第二次大戦のような現代史は教室で教えることはまずなかったからである。生徒の目に触れない教科書の文言についての論争なのだ。しかし今日は実際に生きていたあれこれの教科書を見てもっと肌触りのある教科書のイメージを抱けたのだった。「修身」の教科書の内容にもなるほど、とうなずけるものもあった。「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で有名な小学校国語読本(1933年)が鮮やかなカラー印刷だったというのも初めて知った。

 考古学で言えば「教科書」という遺物を媒介として日本の生きた教育史が編めないか、と気宇壮大な思いに一瞬とらわれただけでも意味ある勉強会だった。

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