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2008年8 月10日 (日)

政府専用機を見送りながら ~今年、広島にて

7月末から、夫の両親が住む広島・呉へ帰省した。
タラコが生まれて初めての広島行き。実は、父はタラコ4歳にして初対面なのだ。
人見知りしないタラコ、初めっから、まるでもう何度も会っているかのようななつっこさで、1週間したらすっかり「広島の子」となっていた。

私は5年ぶりの広島だ。8月のこの時期、平和公園は6日の平和式典に向けて準備が進められている。5年前に訪れたのもちょうどこの時期だった。
今回も平和公園と原爆資料館に行きたかったが、呉から広島まで足を延ばす余裕はなかった。
町の掲示板には公民館での「原爆と戦争展」のチラシ。図書館の入り口近くに並べられた戦争や原爆関連の本。静かで穏やかな田舎町だけど、たしかにここはヒロシマなんだな、と思う。

私たちが東京へ帰る8月6日は広島原爆の日。朝、テレビで式典を見た。
毎年、毅然と平和宣言を発する秋葉市長、懸命に平和を訴える子ども代表が印象的だ。それに比べ、去年までの小泉首相の態度は原稿棒読みで耐え難いものがあった。今年の福田首相は何度も原稿から顔を上げようとしているあたり、少しほっとした。

式典を見終わって、広島空港へ向かった。早く着いたので、離着陸が見えるレストランでお茶をしていた。
母が「あら、あれはどこの会社の飛行機かしら?」というので外へ目をやると、垂直尾翼に日の丸。
「あ、あれは政府専用機ですよ。福田さんたちを乗せてもう東京へ帰るんですね」・・・と言い終わらないうちに、空の彼方へ小さくなっていった。

元安川の橋の上から平和公園を見ると、整然と整備されていて、かつて火の海となり、焼け尽くされた人々のどよめきがあったのか信じられない気になる。
しかし、左を見ると原爆ドームがそれを証言しており、かなりの高齢者の方々が酷暑にも関わらずつぎつぎに訪れ祈りを捧げている姿を見ると、たしかにあったことなのだ、と思い知る。

4日間で広島、北京、長崎・・・福田首相も激務だ。問題山積の国家。やるべきことがありすぎて、式典が終わったらサッサと帰るのも無理もない。
だけど、飛行機が飛び立ったこの時もまだ平和公園は、あの日に思いを馳せる人々、忘れまいとする人々であふれているだろう。

どうか、その人たちの苦しみや願いは置き去りにしないでほしい。全ての仕事は平和のためにあるのだから。

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コメント

いつもお世話になっております。やっと、ネットの接続が出来るようになり、何度も失敗しながらもがんばって打ってみました!

私も昨年、千羽鶴を折って、広島へ行きました。
私は、今の平和ボケした日本から、やがて戦争体験者が居なくなることに、とても危機感を感じています。
それで昨年、生協のピースアクションという毎年行っている企画で、広島行きと長崎行きがあり、そろそろ子供達も理解出来るだろうと、広島行きに応募し、参加させて頂きました。

各地で様々なイベントが行われていて、生協の職員さんの案内で、慰霊碑巡りや、語り部、資料館、式典まで、書ききれない程ハードスケジュールでしたが、子供以上に私が、色々な勉強や体験をさせてもらいました。
最後に、式典にも出席させて頂き、広島っ子代表の小学生の平和宣言の言葉には、心を打たれました。
献花の時、花は持っていませんでしたが「せめて、手を合わせるだけでも」と、たくさんの遺族の方の列に並びました。やがて前の方に進んで来た時、すぐ後ろの男性の方が、自分の持っている花を、私達3人に分けて下さいました。お礼を言って献花させて頂きましたが、暖かい心遣いに、ただただ感謝でした。

地元に帰った次の日、四日市の空襲の体験談を聞く集いにも参加しました。
広島から、何人か連れて帰ってきてしまったような、重みを感じて『私に出来る事は何!?』と、数週間ずっと自問自答していました。長女の自由研究にはしましたが、見向きもされず、それでも吉永小百合さんのように、尊い命の大切さや戦争の苦しみを、人々にうったえていけるような何かを、ずっと考えていました。

結局何も出来ないまま、1年がたとうとしたある日、ふと考えが浮かびました。「私には書くことしか出来ない。ならば、書いて一人でも多くの人に、うったえよう」と。

思い立ったらそく実行! 開催日時可能な日を催事場に確認、生協さんから頂いた資料や、峠三吉さんの詩などを集め、著作権や、使用許可の確認を生協さんにお聞きしたら、なんと、市などが取り扱っているパネルを「生協独自でも持っている」とのことで、そのパネルをなんとなんと、貸して頂けることになり、13,14,15日の三日間、以前作品展でお借りした催事場で、『戦争と原爆』~終戦後63年の時を経て~と題し、書を交えたパネル展を開催することが出来ました。

私の生活を知っている知人に出くわし「何をやっているの~!?自分の事も大変なのに~全く…」と言われてしまいましたが、『シンク・グローバリー アクト・ローカリー』ですよね!
たった一人でも出来る事がある。もちろん色んな方の協力があってこそですが。

準備している最中から、たくさんの方が、足を止めてじっくりと見て下さっていました。
15日の夜、撤去に行きましたら、『ご意見、感想ノート』に、思いがけずたくさんの方が、メッセージを書いて下さっていました。『知らなかった。戦争は絶対にいけない』と書いてくれた子供や、
中でも『パネル展を開催してくれてありがとう』『毎年やってほしい』というメッセージが、いくつもあり、想いが伝わった事が、本当にうれしかったです。

突然の思いつきで、実現した企画で、大変なこともありましたが、一人でも多くの人に伝えていくことで、これからの未来の事や、戦争で命を落とした人が、少しでも救われるような気がして『これだ』と思いました。
2度と繰り返さないために、これからも少しずつ、自分に出来る事をやっていきたいと思います…。

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